「徳川・織田連合軍が敗北した理由は、「信長公記』の記述)に、「家康公中筋立てられ」とある如く、軍勢の中央を切り破られたことにあったようだ。鶴の隊形であった徳川・織田連合軍は中央を武田軍に突破され、左右に分断されてしまい、その後は各個撃破されたとみ られる。

合戦は、酉刻(午後六時頃)にはほぼ決着がついたといわれる(「本多家武功聞書」他) 。

徳川・織田連合軍にとって幸いだったのは、敗北が決定的になったころ、周囲は夜の闇に包まれていたことだ。地の利がある徳川方は、浜松城を目指して逃亡した。いっぽうの武田軍は、連合軍を追いかけたものの、地理に暗く、家康を取り逃がしてしまっている。

武田軍は、先手と二の手の軍勢だけで徳川・織田連合軍を撃破し、信玄旗本、脇備、 後備はまったく参戦せずに勝利をおさめたという。

信玄は、織田信長が偽装工作を行い実は今切付近にいるだろうと予想し、二度目の合戦の支度をするよう全軍に下知した。 そこで、参戦しなかった脇備を先陣へ、後備を前に配置しなおし、捨て篝、本篝を設置して織田の襲来を待ち構えたが、何事も起こらなかったという。このころ、すでに夜になっていたらしい。」

平山優『新説 家康と三方原合戦: 生涯唯一の大敗を読み解く』より