連載「ルポ男児の性被害」第3回

「日本ではそもそも男子の性被害を想定していないと感じます。ジャニーズのことも、都市伝説くらいに軽く考えていたのかも」――13歳のジャニーズJr.時代、故ジャニー喜多川氏から性被害を受けた二本樹顕理さん(39)は、長い間、強い自己嫌悪に苛まれ、一時は「もう死ぬしかない」と思いつめたという。どん底まで落ちた時は聖書に救いを求め、カウンセリングを受け、トラウマに向き合った。ジャニー氏死去の一報に触れた時、「ああ、これで少年たちを食い物にするような人物がこの世からいなくなったんだ」と安堵した。

これまで本連載では小中時代に教師から性暴力を受けたケースを取り上げたが、絶対的な力関係の下で被害に遭っている子どもが声を上げられないのは本件でも同じである。本件がさらに悪質なのは、犠牲の実態を知っても、周囲の大人たちが権力者に忖度し、見て見ぬふりを続けてきたことだ。性暴力の実情を長年取材するジャーナリストの秋山千佳氏による徹底取材第3弾。(「文藝春秋 電子版」連載第3回より一部を公開)

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 1997年にアイドル雑誌の付録だったポスターがある。当時人気のあったジャニーズJr.の少年たちが上半身裸で身を寄せ合っている。下半身は写っておらず、彼らが一糸まとわず笑顔を振りまいているようにも見える一枚だ。

 あどけない顔で納まっていた13歳の少年は、39歳になった今、打ち明ける。

「この頃はずっと嫌悪感がありました。ジャニーさんの性行為を受けたことによって仕事で優遇されるようになったんだと思って、強い自己嫌悪があった。そして、当時は性暴力だとは理解していなかったですけど『なんて汚い世界なんだ』と思っていました」

 二本樹顕理は、ジャニーズJr.として活動していた1990年代後半、ジャニーズ事務所創業者で前社長のジャニー喜多川(2019年死去)からの性被害を受けていた。被害は半年から1年ほどの間に、10回程度。それは退所後も、人生に長い影を落とすことになった。

KinKi Kidsのコンサートにいきなり出ることに

 1983年に生まれた二本樹は、マイケル・ジャクソンが好きな小学生だった。母親とともに来日公演に行って、「自分も歌って踊れるアーティストになりたい」と夢見た。11歳頃から劇団に所属していたが、中学へ進むと、日本で歌って踊れるアーティストを養成する代表的存在だったジャニーズ事務所へと自ら履歴書を送った。

 1996年夏。ジャニーズ事務所から電話があり、オーディションを受けることになった。母親に付き添われて六本木の会場へ行くと、最初に踊りのグループ審査があり、続いて面接を受けた。そのオーディションがジャニーとの出会いだった。見た目は「普通のおじさん」だったが、審査のやりとりを見ているうちに「ひょっとしてこの人がジャニーさんかな」と気づいた。

 それから1カ月もたたないうちに、男性の声で電話がかかってきた。日時とともに「ここに来て」と伝えられた。

「KinKi Kidsさんの横浜アリーナでのコンサートでした。そこに私もいきなり出ることになって。KinKiさんがパフォーマンスをしている後ろに、Jr.たちが座るセットリストだったと思います。それで自分がオーディションに合格したことを知りました」

 入所すると、Jr.のレッスンに参加するようになった。会場には必ずジャニーがいた。

「Jr.のいるところに常にジャニーさんがいるという感じで、日常的に接点がありました。ジャニーさんはレッスンの様子を見ていたり、Jr.と談話したりする。話の内容は他愛もない日常会話が中心でした。ジャニーさんは口数が多い方ではないし、怒鳴るようなこともありません。ただ、個人的には話しやすいとは言えなかったです。現場にいるすべての人が口答えせず、常に顔色を窺っているような緊迫した空気があったからです」

 二本樹からしたら怖い振付師の男性も、ジャニーの前に出るとおとなしくなった。事務所社長の権威を目の当たりにするようだった。

 もうひとつ当初から感じていたのが、ジャニーが自分の近くによく来ることだった。

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https://bunshun.jp/articles/-/62824