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いまから90年前の夏、4時間55分に及ぶ熱戦が阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で繰り広げられた。

十六回までしかなかったスコアボードは継ぎ足され、決着が付いたのは延長二十五回。春夏の甲子園大会で引き分け再試合の規定がない時代の最長記録として、いまも語り継がれている。

熱戦を繰り広げたのは、愛知・中京商(現・中京大中京)と兵庫・明石中(現・明石)だ。1933年夏の第19回全国中等学校優勝野球大会(現・全国高校野球選手権大会)の準決勝だった。

スコアボードには二十四回までゼロが並び、二十五回裏に中京商が1―0でサヨナラ勝ち。決勝も制し、大会3連覇を決めた。

■両校は今年、創立100周年
今年、両校ともに創立100周年を迎える。その記念に、5月7日に現役の野球部員たちが明石トーカロ球場(兵庫県明石市)で対戦する。選手らは歴史をかみしめながら、試合に臨む。

明石では、練習前にユニホーム姿の部員がバックネット裏に集まる。グラウンドを背にして並ぶと、背筋をぴんと伸ばし、「お願いします」。選手25人が一斉に頭を下げた。練習後は同じ場所で「ありがとうございました」。校庭に声が響く。

一礼するその先にあったのは、石碑だ。

高さは約2メートルで、中央に「善闘記念碑」と刻まれている。延長二十五回を戦った選手をたたえ、試合翌年の1934年に建てられたとされる。側面には、当時の選手の名前も記されている。

伊藤椋平(りょうへい)主将(3年)は、野球を始めた小学2年のころから、明石野球部の卒業生だった父から90年前の激闘の話を何度も聞いた。「僕の中では伝説の試合。いつも先輩たちに見守られているようで、気が抜けない」。練習前後の一礼は、受け継がれてきたしきたりだ。

■明石の監督は中京大中京の野球部出身
「不思議な縁を感じる」と話すのは高石耕平監督(41)だ。

神戸市出身で、中学生だった1995年、阪神淡路大震災の直後に父の転勤に伴って愛知県岩倉市へ。中京大中京に進学し、左腕投手として野球部に入部した。

高校の教員として地元に戻り、2017年に明石に赴任した。「どちらの野球部にも携われて、伝統の重みを感じている」

監督室の壁一面には過去の甲子園出場時の写真がずらりと飾られる。ただ、明石は1987年に春夏連続出場をして以来、甲子園から遠ざかる。一昨年の夏は兵庫大会で4回戦止まり。昨夏は3回戦で姿を消した。

伝統的に大切にしているのは「自分たちで考える野球」だ。

試合を想定した練習では、選手間でサインを出し合って攻撃を仕掛けたり、練習後は選手だけでミーティングを開いて意見交換したり。昨年からは丸刈りを廃止し、髪形も自由にした。

■中京大中京の選手も歴史学ぶ
中京大中京の部員は5月1日、昼食時に学園史担当の渡辺真佐信さん(68)の講話を聞いた。

「90年前の話なので、みんなピンとこないかもしれないけれど、いまも燦然(さんぜん)と輝く試合」と渡辺さん。

当時の動画のあと選手の出場記録も見せ、「これだけ戦って中京の失策はゼロだった」。伝統の堅い守備を示す数字に、部員から「すごいな……」の声が漏れた。

江崎直人主将(3年)は「延長でタイブレークがある今の時代では考えられないこと。最初に知ったときは、こんなにゼロが並ぶことがあるんだと思った」。同校野球部の卒業生でもある高橋源一郎監督(43)は記念試合について「歴史や伝統に触れる機会で、選手たちの励みにもなる。こういう機会を与えてもらえてありがたい」と語る。

■記念試合を今夏の大会への弾みに
甲子園には中京大中京が春夏で計60回(コロナ禍で中止された春1回を含む)、明石は計14回出場している。1933年夏のあとは春に2回、夏に1回、2校が同時に出ているが、甲子園での再戦には至っていない。

記念試合にかける思いは選手たちも強く、今夏の甲子園への弾みにしたいつもりだ。

明石の伊藤主将は「相手は今も甲子園の常連だが、先輩たちの思いも胸に堂々と戦いたい。やってきた練習の成果を発揮したい」。

6年ぶりの夏の甲子園をめざす中京大中京の江崎主将は「甲子園で戦うからこそ、みんなに忘れられない戦いになる。自分たちは出たことがないので、この夏に行けるよう頑張る」と語った。

7日は午前10時から中京大中京―明石の記念試合。午後からは、今春の選抜大会準優勝の報徳学園(兵庫)も加わり、1時半から中京大中京、4時から明石がそれぞれ練習試合で対戦する。(上山浩也、山口裕起)

朝日新聞社2023年05月04日19時00分
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