春川 正明ジャーナリスト
SNSやユーチューブなどの影響もあり、若者を中心としたテレビ離れが指摘されている。
経営的に厳しさを増すテレビの地方局の再編などが議論される中で、地域に密着して生き残りをかける地方局の競争が激しい。地方局の強みを生かして新しい道を切り開き続けている岡山のRSK山陽放送の原憲一取締役会長(75)を訪ねて、テレビ報道という仕事の面白さや、ずっと大切にしていることを聞いた。
岡山に本社があり岡山と香川を放送エリアとするRSK山陽放送は、TBS系列のテレビ・ラジオの兼営局だ。1953(昭和28)年に開局してラジオ放送を開始し、5年後には全国7番目としてテレビ放送も開始した。
一昨年に完成した新社屋『RSKイノベイティブ・メディアセンター』の正面玄関では、岡本太郎氏が制作した陶板レリーフ『躍進』が来訪者を迎えてくれる。
1972年にRSKが山陽新幹線岡山駅開業に合わせて岡本氏に制作依頼したもので、JR岡山駅に50年近く設置された後にここに移設された。RSK山陽放送の創業の精神は『地域の発展と共に』だ。原会長に、地方局の使命は何かと聞いた。
目立たない出来事を拾うことの意味
「地方の社会問題はなかなか真剣に考えてもらえない、地方局がちゃんと伝えていかないと。大都会の問題だと割と取り上げられやすいんだけどね。資本主義の効率のことを考えたら、全部何もかも東京、大阪に集めてやったほうが効率はいいんですよね。
ところが一極集中で過疎が進んできて、過疎地へいろんなものが押し付けられていく。原発もそうでしょうし、産廃問題もそうでしょうし。
だからそういうことを地方局がチェックする機能を持たないと意味がないですよね。東京のキー局はそういうことは絶対分かんないですよ。瀬戸内海の離れ小島(豊島《てしま》)にゴミの山があるなんて絶対気づかないですから。
地方局が番組を作って中央に発信して、『えーそんな酷いことがあったの?』といって国が動いて、訴訟になって、それで解決して行ったわけですね、30年掛かったけどね。それはやっぱり地方局の使命じゃないかと思うんだけどね」
岡山県備前市出身の原会長は、1970(昭和45)年にRSK山陽放送にアナウンサーとして入社し、ラジオ・ディレクターに転進してラジオ・ドキュメンタリーを制作する一方で、岡山刑務所内で受刑者によるディスクジョッキーを指導した。
テレビ報道記者になってからは、岡山にある国立ハンセン病療養所を取材してドキュメンタリーを作った。療養所で戦前、入所者が出産した後に窒息死させられた胎児のアルコール漬けの標本を撮影したが、おそらく日本で唯一の、強制隔離の残酷さを裏付ける貴重な映像となった。
「(ハンセン病の)国立療養所の第一号が岡山で出来たんだから、みんなでいじめて、差別して、閉じ込めて、死ぬまで終生隔離したわけですから、あんなきれいな島で残酷な人権蹂躙をやってきた記録というのはやっぱり残さないとダメだという。そういうものを番組にして、支えなきゃダメだ」
1990年からJNN(系列)カイロ支局長となり、海外特派員としてイラクのクウェート侵攻、湾岸戦争開戦を取材。湾岸戦争の悲劇を象徴することになった油まみれの海鳥の映像を撮影したのはアメリカのCNNと原特派員だけだった。
そしてクウェートに突入する際には遺書の様な家族へのラストメッセージを書き、解放後のクウェートから日本人記者として初めての生中継に成功した。その後も、クルド難民や紛争などを現地で取材した。
「40代で現場に行っている時が一番楽しかったですね、やっぱり体力もあるしね。まあ今も楽しくないことはないんだけど。
特に海外取材でJNNの代表選手で、他の系列と競争するわけでしょう、NHKも含めてね。それもスタッフはエジプト人ですからね。自分のジャッジ(判断)がすべて成果にあらわれる。もう個人商店ですよね。東京はもう何も分からないですからね。
中東行った時はもう一人で自分で全部決めてやるわけだから、それは面白いですよね。一人でどこでも行けてましたもんね。英語もそんなに達者じゃないのに、あっち行ったりこっち行ったり」
帰国後は、全国28局にネットされているTBS『報道特集』のキャスターに抜擢され2年間務め、ルワンダ大虐殺やサラエボなどを自ら取材した。地方局の記者がTBSの看板番組のキャスターに起用されたのは初めてだったが、自分には似合っていなかったという。
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