1990年代に全国区の人気を誇ったお笑いタレントの森脇健児さん。現在は関西ローカルの「HITMON!!」(カンテレ、木曜深夜1時20分、10月からは月曜深夜1時25分)や地元・京都の「あんぎゃでござる!!」(KBS京都、日曜午後10時半)など関西を拠点に活動を続け、毎年春と秋の改編期に放送されるTBS系特番「オールスター感謝祭」の「赤坂5丁目ミニマラソン(赤坂マラソン)」で半年に1度、全国に健在ぶりをアピールしている。森脇さんは、高校時代にオーディションに合格すると、20歳そこそこでブレーク。すぐさま東京に進出し、90年代には10本以上のレギュラー番組に出演するなど大活躍。そんな人気絶頂期の心境や、その後、低迷した原因といわれる大御所とのエピソードの真相、挫折から得た教訓などを赤裸々に語った。

 ◇波に乗れた要因は「あのころ関西にジャニーズがいなかったから」

 1967年2月5日生まれ、大阪府出身の森脇さんは、京都の高校に入学し、2年生のときに「第1回松竹芸能タレントオーディション」に合格。1984年から事務所に所属し、1988年から、関西ローカルのバラエティー番組「ざまぁKANKAN!!」(読売テレビ)のMCを山田雅人さんと共に務め、女子高生を中心に人気を博す。90年代に入ると、東京に進出し、1992年からSMAP、森口博子さんと出演したバラエティー番組「夢がMORIMORI」(フジテレビ系)など多くのレギュラー番組に出演し、人気を全国に広げた。

 森脇さん自身、ここまで急速に、そして熱狂的に全国区で人気が出たのは、「競争相手が少なかった」ことを理由の一つに挙げる。

 「僕がこの世界に入ったのは、80年代の漫才ブームが終わったころで、お笑いをする若い人が少なかったんですよ。だからテレビ局が『女の子をワーキャー言わす(若い)人がほしい』となった時に、当時21歳だった僕が抜てきされたんです」と当時の状況を語る。さらに「ラッキーだったのは、当時は関西にジャニーズ(のタレント)がいなかったこと。ジャニーズに来られたら、本物のアイドルには勝てるわけがないですよ(笑い)」とお笑いタレントがアイドル的な人気で時代の波に乗れた理由を語る。

 ◇絶頂期は「不安でしょうがなかった」

 人気番組「笑っていいとも!」(フジテレビ系)でもレギュラー出演し、俳優やレコードデビューまで果たし、CMに出演するなど、一躍時の人に。さぞかし有頂天だっただろう……と思いきや「アクセルしかない車に乗っているようだった」とそのときの心の内を明かす。

 「時代の追い風が吹いたときって、タレントの意見ってあんまりないんですよ。みこしの上に乗って、周囲に持ち上げられるまま、『もっとこっちに行って!』とか言えない。今だから言えるけど、不安でしょうがなかったです」と明かす。「ちょうどそのころ、CMで一緒になった吉田栄作さんの(仕上がっている)体を見て『このままではいけない』と思い、ボクシングジムに通い始めました。プロを養成するような、すごく厳しいジムだったけど、練習している時が、自分自身に戻ったような感じがしていました」と、当時の知られざる心境を語った。

 ボクシングは結局、プロテストを受ける過程が番組にもなり、1995年にプロテストに合格した。

 ◇90年代末にはレギュラー番組がゼロに 大物を怒らせて干された? 本当の原因は

 森脇さんは、90年代後半からレギュラー番組が少しずつ減っていき、90年代末にはついにゼロに。その原因について、「タモリさんや笑福亭鶴瓶さんら大物タレントに対して空気を読まずに怒らせて干された」という話が定説になっているが、森脇さんはそれに関して、「本当に可愛がってもらったからこそ言えるネタ」と明かした上で、原因は他にあったと語り始めた。

 「ボクシングを始めてから、業界の人との付き合いを減らしたのもあるし、何よりも30代になってから、誰をターゲットにすればいいのか分からなくなったんです。20代は、若い女の子をキャーと言わせたらよかったけど、30代でそうもいかなくなったときに、誰に向けて芸をしたらいいのかが、見えなくなったのが、厳しかった」と自己分析。

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