【訃報】伝説のスタジオミュージシャン集団レッキング・クルーのギタリスト、ビル・ピットマン死去 102歳 [湛然★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
伝説のスタジオミュージシャン集団レッキング・クルーのギタリスト、ビル・ピットマン死去
2022/08/13 17:40掲載 amass
https://amass.jp/159997/
伝説のスタジオミュージシャン集団レッキング・クルーの一員として活躍したギタリストのビル・ピットマン(Bill Pitman)が8月11日、カリフォルニア州ラキンタの自宅で死去。妻のジャネットがニューヨークタイムズに語ったところによると、転倒して背骨を折り、リハビリセンターで4週間過ごした後、自宅でホスピスケアを受けていました。102歳でした。
1920年2月12日にニュージャージー州ベルヴィルで生まれたピットマンは、幼い頃から音楽に親しんでいた。父親はロックフェラー・センターのNBCのベース奏者だった。ピットマンは幼い頃からギターを手にし、10代の頃、チャーリー・パーカーをはじめ、ニューヨークの有名ミュージシャンの演奏を聴きに行き、自らもミュージシャンとしての道を歩むことを決める。やがてカリフォルニアに移り住み、ロサンゼルス音楽院で学び、ペギー・リーのバンドにギタリストとして雇われ、数年のうちにセッション・ミュージシャンとして引っ張りだことなる。プロデューサーのフィル・スペクターと出会い、後にレッキング・クルーとして知られるようになる演奏家グループの一員となり、20世紀半ばのポピュラー音楽のサウンド形成に貢献した。
ピットマンは、ザ・ロネッツの「Be My Baby」、ビーチ・ボーイズの「Good Vibrations」、フランク・シナトラの「Strangers in the Night」、B・J・トーマスの「Raindrops Keep Fallin' on My Head」、バーブラ・ストライサンドの「The Way We Were」、ナンシー・シナトラの「These Boots Are Made for Walkin'」、ザ・バーズの「Mr. Tambourine Man」など、50年代から60年代にかけて、さまざまな有名な曲に参加した。
ピットマンはヒット曲のほか、『M★A★S★H マッシュ』(1970)、『初体験/リッジモント・ハイ』(1982)、『ダーティ・ダンシング』(1987)、『グッドフェローズ』(1990)など数多くの映画のサウンドトラックや、テレビ番組、広告ジングルにも多数参加した。『スタートレック』の初期エピソードにも参加しており、作曲家としてもクレジットされている。
1989年に引退した後も、趣味として個人的に音楽活動を続け、晩年はカリフォルニアに住んでいた。2019年、彼の妻はニューヨーク・タイムズ紙に、彼は「ほぼ毎日、家でギターを弾いている」と語っていた。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
https://pbs.twimg.com/media/FaCuVwiWIAAzSfV.jpg 伝説のスタジオミュージシャン集団レッキング・クルーのギタリスト、ビル・ピットマンが死去。102歳でした。20世紀半ばのポピュラー音楽のサウンド形成に貢献。ロネッツ「Be My Baby」、ビーチ・ボーイズ「Good Vibrations」等 マリオとルイージがトンカチで殴りあうゲームだっけ? このスタジオミューザシャン達の映画なんて題名だっけ? 唐突にコンパイ・セグンドを思い出したけどあの人も長生きだった ピットマンは、ザ・ロネッツの「Be My Baby」、ビーチ・ボーイズの「Good Vibrations」、フランク・シナトラの「Strangers in the Night」、B・J・トーマスの「Raindrops Keep Fallin' on My Head」、バーブラ・ストライサンドの「The Way We Were」、ナンシー・シナトラの「These Boots Are Made for Walkin'」、ザ・バーズの「Mr. Tambourine Man」など、50年代から60年代にかけて、さまざまな有名な曲に参加した。
いや、マジで凄すぎだろ 初めて聞いたお名前だけどプレーは知らずにたくさん聞いてんだな
合掌 シナトラの夜のストレンジャーの
ギターはグレン-キャンベルじゃないの? Switchの定額ファミコンの中に入ってるけど、ルールがいまいちわからなくてあまりやってないやつ >>1
「レッキング・クルーのいい仕事」を買ってるけど本棚に置いたままだ。
そろそろ読むか。 >>1
山下達郎は番組内で何人追悼しなきゃいかんのよw ジミヘン聴いた、スティービーレイボーン聴いたとかミュージシャン言うけど遡り過ぎて分からん >>27
そのくらい把握しとけよ
ロックなんか歴史も重厚もないジャンルなんだからw 60年代初頭で既に40代だったんだ
周り20代ばっかりだったろうに グレン・キャンベルみたいに一人立ちしてキャリアを築いてたら
また評価も違ぅてきたやろうけど…>>1
しかし、レッキング・クルーやらファンク・ブラザーズやら
こういう偉大な裏方が名前が出てくるような時代になったのはデカい… >>19
最後大怪我したみたいだから大往生はどうかな.. >>11
50年代ってのは音楽史上、重要な時期だからね
昨今のポップスのベースになってるのは、60年代の音楽だけど、その60年代の音楽が育つ土壌を作ったのは50年代の音楽
ゆえに50年代の音楽の潮流が違えば昨今の音楽も様変わりしていたということで、50年代は本当に重要な時期と言える
40年代までのビッグバンドの音楽を50年代がどういう方向に変えたか?で、昨今の音楽も様変わりしていた >>30
>>33
京都の会社でブラッキーはいろいろまずかったからなw >>34
レッキングクルーの人たちは元はほとんどが手練れのジャズミュージシャンよね
ポップやロックは譜面見ればその場ですぐどんなアレンジでもチョチョチョイと弾けたレベル
だから重用されたし時代もあってヒット曲を輩出したし彼らもセッションミュージシャンとしてキャリアを全うしたんだと思う
この頃のポップ音楽産業って楽曲作家がいて、セッションミュージシャンがいて、レコードを出す顔になるアーティストがいて、プロデューサーがいて、という分業制の量産システムで
そこに当時のトップレベルの技能集団が集まって、レオンラッセルやグレンキャンベルはその中でちょっと突き抜けた才能ってことだった
東海岸ならブリルビルディングの関係者のその後もそうよね 「レッキングクルーのいい仕事」は始めに知らない関係者の名前が延々列挙されて
そこををまず通らないといけないのが苦行みたいで「旧約聖書かw」と思ったけど
私はジミーウェッブが好きなので、若き彼がオクラホマの田舎からロサンゼルスにやって来て(彼は厳格な牧師の息子だったから)西海岸の明るくて自由な雰囲気に夢中になって
街は花の匂いがしていた、夕暮れにはどこの家の窓からもラジオからビーチ・ボーイズが流れてたって語るところは
ふわっと匂いと音と夕暮れのロサンゼルスの住宅街の映像が浮かぶようで鼻の奥がツンとくる、大好き レッキングクルーのドキュメンタリー映画の方はトミーテデスコの息子が作ったので、あの頃の音楽シーンや名曲誕生秘話ってだけでなく
「生涯縁の下の力持ちで終わった父親の音楽人生を息子が温かく振り返る、家族のストーリー」になってて、最後は泣いちゃったよ
回りのお客さんたちも鼻をすすってた
ロサンゼルス版ファミリーヒストリーとでも言うか。
映画でハルブレインとキャロルケイとトミーテデスコが楽器弾きながら
「あの曲のイントロはこんな感じで…」とか延々しゃべってる鼎談シーンが超絶面白くて
「ここのシーンをノーカットで全部見せて!」と思った
BDは未公開シーン6時間付いてるらしいから、多分ノーカットで全部見れるのではw
買わなきゃ、と思って忘れてたの思い出した ハルブレインがとにかく仕事しまくってヒット曲量産して当時ギャラ儲かって儲かってウハウハだったけど
離婚で全てを失ったと笑って話してたくだりは、何で…どうして…と思ったけど
映画のIMDBのレビューみたらやはり他にも疑問に思った人がいて
ほんまにpre-nups怖い。という肝の冷える話w ダーティーダンシングのサントラまだたまに聞くよ。その他も良い曲ばかりだねご冥福! >>42
すごく想像できる良い文章を書きますね。世代的にやっぱりアメリカの文化や音楽に憧れてきたから、あなたの文章がグッときましたわ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています