>>87
離婚後に宇多田が書いたエッセイかな?
16歳年下の病み上がりの若い嫁に説教する面倒な男だよな


>19才の時。結婚した。はじめにも書いたけど、アイデンティティーを探す、
自分がどんな人間か具体的に知ろうとする、そんなのほとんどしたことが無い。
インタビューで、私はいったいどういう人間なのか、自分のことをどう思っているのか、なんて聞かれると戸惑った。

結婚すると、夫はインタビュアーのように私を追求し始めた。とても困った。
「自分がどんな人間で、 夫にどうしてほしいのかなんて、分からない…考えるのも質問するのも変な気がする…。
結婚ってこういうことなのかなあ?」
彼は、それが人として重要なことだと、私を問いただした。
それに答えられない自分が、無責任でいいかげんな人間だと言われるようで、苦しかった。
四年半の結婚生活の間、結局答えは出せなかった。 彼は真剣に私と向き合ってくれた初めての人だった。
…バツイチになってもうた。

今思うと、私は自分のアイデンティティーを、それと真逆の方法で保ってきたんじゃないかと思う。
「人でありたい」という気持ち以外に、自分がどういう人か?なんて考えたことがなかった。
いつも、全部でありたい、と思って生きてきた。 男であり女であり、赤子であり老人であり若者であり、
子であり母であり、黒くもあり白くもあり、 無力であり無敵であり、下品であり上品であり、
歌うことが大好きであり大嫌いであり…。 両極とされることは個別の円に見えても、見る角度や、
それぞれの円の深さを知ることによって、 全ての円が重なり合う素敵な領域があるような気がしてならなかった。

全部でありたい、という気持ちは、「自分を定義する」ことの逆なのかもしれない。
「私は女だ、東京に住んでいる、若者だ、これが好きだ、あれが嫌いだ、こうされたい、これは怖い」
といった自己定義は、ただ自己を制約するものを羅列するだけのように思える。
自分はああだこうだと、 内と外の境界線をはっきりさせる考え方には興味がわかない。むしろ世界の全てと共通したい。

私の腕を乗せたデスクもこの体を支えるイスも、私とそう違わない。
すばらしい会話に夢中になってる時、 どこまでが自分でどこまでが相手か分からなくなる瞬間がある。
友達と大爆笑してる時、 私の一部はもうそこにはいない。世界を自分の「内」と「外」で分別し出すと、
自然からも本能からも 離れて行く気がする。なんでもないと同時になんでもある存在になりたい。
そんな感覚をずっと持ってた。 そんな救済の予感をずっと追っかけてた…。

自分の世界が無限に広がるようで、まだ、「一点」に向かいながら自分の存在が明瞭になって
いくような軽やかな気分…「点」って無限なんだぜ。 すでに自分はこの世界の一部なのだから、
万物と共感、融合することは、決して自己の喪失ではない。