本当の極貧というのは藤圭子のような極寒のサムライ部落出身者のことだよ
自殺後に、北海道経済新聞が改めて旭川で取材した記事を出しててる


https://h-keizai.com/?p=367
訃報をニュースで知った旭川市神居町の長井孝之さん(70)は次の日、藤さんが小学生のときに
神居神社で行われた歌謡大会で見事優勝を飾った際の彼女の面影を求めて「あの日」と同じ場所に立った。
「神居祭り」の一環として実施された歌謡大会の実行委員長、石坂辰義さんは「藤圭子がここで育ったことは
地域の自慢で尊敬の念もあるが、あの子のことを語ると美談ではなく、同情心ばかり湧いてくる
小さな時から大人の顔をしており、歌はピカイチだったが、模様だか汚れの染みなんだか分からないような粗末な恰好をしていた」

藤さんは1951年、岩手県一関市で地方まわりの浪曲歌手の父と、目が不自由な三味線奏者の母との間に
3人兄妹の末っ子として生まれた。一家は、藤さんが生後まもなく渡道。3歳のときに旭川に移り住んだ。
生活は苦しく、道内や東北を中心に旅回りをし、祭りや炭鉱、寺の本堂、旧家の大広間などで歌い
その日暮らしをしていた。仕事がないときは、長女に乳飲み子の藤さんを背負わせ
母は三味線を抱え
父は長男の手を引き風呂敷包みを背負いながら、一軒一軒営業のために農家をまわった。
忠別橋たもとのサムライ部落で生活していた際には「冬、下駄で忠別川の氷を割って、おしめを洗っていた」と当時の様子を知る人は話す。
やがて藤さんも、7歳ごろから両親と一緒に演歌の流しを始めた。マイナス20度の厳寒の折でも膝まで雪に埋もれながら何時間も歩き
寺の軒先や床下で寝ることもあった。藤さんは小学校を何ヵ所か転校したが大有小4年の担任だった小田栄一郎さん(81)は
同校に編入してくる際、在学証明書を一度に4、5枚も重ねて提出したことに驚かされる。
住まいは畳もなく、床がむき出しになった状態で裸電球が一つぶら下がっただけ。

藤さんが納豆や豆腐を売り歩いていた姿を記憶している殿村真紀子さん(64)は「自分から明るく挨拶することもあれば
声をかけても何も喋らないことがありあの頃から躁鬱の気があったかもしれない」と振り返る。
貧しさのせいか、ある年のクリスマス、近くの菓子店で姉妹2人そろってケーキを「拝借」してしまったことは、
知る人ぞ知る語り草になっている。
遠足など費用のかかる学校行事はすべて欠席。服装は一年中、穴のあいた同じものを着てくるほど生活が困っていた様子で
靴もゴムの底が「カッパカッパ」と音を立て取れそうで寒い日は走って帰る。保護者たちに古着を持ち寄ってもらい
それを届けたこともあった。小3の冬休み、稚内まで膝まで雪に埋もれて黙々と12キロの道を歩いた、しかし小屋主はその非の出演料を払ってくれなかった
「もう死にてえ・・・」旭川の-40度の橋の下で野宿をしていた。