0001朝一から閉店までφ ★
2021/08/27(金) 11:30:42.64ID:CAP_USER9叶 精二
アニメーション映画監督宮崎駿氏は2021年1月で80歳、傘寿を迎えた。映画『風立ちぬ』完成後の2013年9月、宮崎監督は長編映画制作からの引退会見を行なったものの、2017年に撤回。今は新作長編映画『君たちはどう生きるか』の制作に取り組んでいる。長編アニメーションは集団の分業で制作される。
先頭で指揮をしながら自らも徹底的に描いて修正する宮崎監督の演出スタイルは、十数人分の労働を兼務するようなもので、世界的にも極めて異例だ。体力も精神も限界を超えるような過酷な制作現場に、老境を迎えてあえて戻った理由は何なのか。宮崎監督作品研究の第一人者である映像研究家の叶精二氏が『君たちはどう生きるか』に込めた思いを探る。
宮崎作品を支えてきた主力スタッフ達の相次ぐ訃報
2016年11月、宮崎駿監督が引退宣言を覆して新作長編に取り組む準備をしていることが報じられた。翌17年、新作映画『君たちはどう生きるか』の制作開始が伝えられ、以来4年が経過した。いまだ完成の報告はなく、公開は23年とも伝えられている。
前作『風立ちぬ』が公開されたのは13年7月。以降、今日までの8年間に、宮崎監督の作品を支えて来た数多くの主力スタッフが亡くなった。15年8月にはアニメーターの篠原征子さん、16年5月にはアニメーターの二木真希子さん、同年10月には色彩設計の保田道世さん、18年4月には長年共に作品を制作して来た高畑勲監督が死去した。
そして21年3月15日、アニメーター・作画監督の大塚康生さんが89歳で急逝した。宮崎監督の10歳年上の大塚さんは、この7月の誕生日で90歳の卒寿を迎えるはずであった。大塚さんは、宮崎監督が東映動画(現・東映アニメーション)の新人時代に指導を受けた恩師であり、労働組合の同志であり、長年コンビを組んだ盟友でもあった。
筆者は約30年間、大塚さんと交流を持たせていただき、宮崎監督と大塚さんとの関わりについて聞き取りと記録を続けてきた。以下、その一端を記したい。
「アニメーションの入口を教えてくれた人」
宮崎監督はかつて大塚さんについて次のように語っていた。
「アニメーションの面白さを教えてくれた人、アニメーターの眼でものを見始める──その入口を教えてくれた人」(DVD『大塚康生の動かす喜び』2004年)
1965年、初めて長編映画の作画監督に任命された大塚さんは、無名の新人だった高畑勲さんを演出に指名。上司の反対を押し切って実現させてしまう。さらに新人動画に過ぎなかった宮崎さんのメインスタッフ(場面設計・原画)への昇格を認め、高畑・宮崎のコンビ結成を後押しする役割を担った。奥山玲子さん、小田部羊一さんら他のスタッフも異例の人事を受け入れ、それぞれが団結して作品制作を担ったのも、大塚さんの人柄とリーダーシップによるところが大きかったという。
制作は労使紛争をはらんで遅れに遅れ、3年後に映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』(68年)として完成した。しかし、興行成績は振るわず、多くのスタッフが降格処分となった。69年、大塚さんは「Aプロダクション(現・シンエイ動画)」へ移籍。2年後にテレビシリーズ『長くつ下のピッピ』を制作すべく、高畑・宮崎・小田部の三氏もAプロへ。『ピッピ』の企画は頓挫したが、4名は中編映画『パンダコパンダ』(72年)で再結集して作品制作に臨んだ。
その後、高畑・宮崎・小田部の三氏はテレビシリーズ『アルプスの少女ハイジ』(74年)を制作するためにズイヨー映像へ移籍したが、大塚さんはAプロに残った。実は、『ピッピ』や『ハイジ』の企画を高畑監督に打診したのは大塚さんだったという。
高畑勲監督は以下のように記している。
「常にいっしょに歩むわけではけっしてなかったのに、私の転機には必ず大塚さんが現れて、私を別の方向に誘うのです。私がいちばんお世話になった人、それが大塚さんです」(高畑勲『人生の兄貴分』83年刊大塚康生著『作画汗まみれ』初版に掲載)
高畑監督と行動を共にした宮崎監督も同じ思いであったと推測する。
コンビで演出スタイルを確立した『未来少年コナン』
===== 後略 =====
全文は下記URLで
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01161/