日経クロスtrend※日経トレンディ2021年8月号の記事を再構成 2021年07月12日
https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00492/00007/

1981年、早稲田大学法学部在学中に劇団「第三舞台」を旗揚げし、「小劇場ブーム」の旗手として時代を駆け抜けた作家・演出家の鴻上尚史氏。その第三舞台が生まれたのは、他校の生徒や希望者も参加するインカレサークルの早稲田大学演劇研究会だった。1920年設立の伝統あるサークルでの学びについて聞いた。

――もともと演劇がやりたくて早稲田大学を志望したのでしょうか。

 いやいや、僕は東大に行きたかったんですよ。でも、2回も受けたのに、結局入れてもらえなかったから、「なんだよ」と思って早稲田に来た。ホントは避けたかったんです。だって、誰もが「おまえは、早稲田っぽい」っていうんだもん。かといって慶応は気取った感じがして、これも違うな、と。だから、入学したときはちょっと挫折感がありましたね。でも、それはすぐ吹っ飛んだ。もう今となってはひとつも後悔はありません。だって、早稲田だからこそ演劇ができたのだから。

――「早稲田だからこそできた」とは、具体的にどんなことでしょう。

 もう、当時の早稲田は素晴らしいですよ。授業がゆるゆる、特に法学部はゼミも卒論も無し。これは皮肉じゃなくて本気で褒めてます。だから思う存分演劇に打ち込むことができました。当時の演劇研究会ってヒドイところでね、入会説明会で「授業には出られますよ」と言って新人を勧誘するんです。ところが、いざ活動が始まり、「授業、始まるんで」と、公演用のテント設営中に抜けようとしたら、先輩が「バカか、おまえは。授業に行けるわけないだろう」って。それでも、5年半かかったけれど、僕がなんとか卒業できたのは、この緩さのおかげです。

 もう一つ素晴らしいのは、大隈講堂の裏のスペースを学生に開放してくれたこと。アトリエと舞台があり、照明機材も音響機材もそろっている場所で、一年中好きなだけ稽古ができた。あんなすごい環境を授業にも出ない学生に惜しみなく与える。これはなかなかできることじゃありませんよ。

 大声を出して稽古をするものだから、当時大隈講堂の隣にあった予備校の人から「うるせえ」って、しょっちゅう怒鳴られていました。でも、それに対して学校は何も言わなかったし、泊まり込んで作業してもおとがめなし。公演期間中はずっとテントに泊まることになるので、公演が終わると、必ず一升瓶を2本持って警備員さんの詰め所へ行き挨拶をするというのは、先輩から教わった礼儀でした。

――その早稲田の自由闊達さはどこからくるものなのでしょう。

 かつて、大学の自治ということが言われ、学生が大学という空間を自分たちで管理するのは当然だと考えられていた時代があります。それを強く追求したのが、僕らの世代より10歳くらい上の学生運動の世代の人たち。でも、学生運動は無残な敗北を遂げました。そして、何が残ったかというと、大学側による締め付け。多くの大学が、厳しく管理運営していく道を選びました。でも、早稲田だけはちょっと違った。やはり学生に任せるべきところは任せていこう、そう考えていたのでしょう。だから、学生は放っておいてもらえたし、結果、早稲田は多様な人材を輩出してきました。

 僕らの時代の学生部長(編集部注:学生生活全般を支援する大学学生部の長)、今でも覚えていますよ。一度、公演用の特設テントを、いつもの大隈講堂裏ではなく、大隈講堂の前に勝手に立ててしまったことがあります。公演日程は大隈講堂で他のイベントが予定されていない日を選ぶなど、僕らなりに気を使い仁義は切ってきたんです。でもまあ、やってはいけないことではあるわけで、「責任者、出てこいっ!」と僕にお呼びが掛かった。

 最初、別の部員を鴻上だと思い込ませて連れて行かせていたんですが、「こいつは鴻上じゃない!」と、とうとう捕まり、促されて部屋に入ったら恰幅のいい人が座っていて、その人が学生部長だった。「いつ、テントは撤去するんだね」と聞かれ、公演は一週間だったから「○日です」と答えながら、ああ、すぐに撤去しろと言われるんだろうな、でもできないしな、もめるな、と思っていた。そうしたら、その人は黙ったまま、手で「立て」というアクション。僕が立ったら、「もう行け」というアクション。それだけです。この人、懐が深いなと思いました。
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