【大河ドラマ】青天を衝け:第13回視聴率13.9% 物語の舞台は激動の京へ 土方歳三、五代才助登場 家康初の出番なし [鉄チーズ烏★]
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2021年05月10日
テレビ
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俳優の吉沢亮さん主演のNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」(総合、日曜午後8時ほか)第13回「栄一、京の都へ」が5月9日に放送され、平均視聴率(世帯)は13.9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だった。前週第12回13.4%(同)から、0.5ポイントアップした。
同回から、物語の舞台は激動の京へと移り、町田啓太さん演じる新選組副長・土方歳三や、ディーン・フジオカさん扮(ふん)する薩摩藩士・五代才助(友厚)が登場。また、ここまで皆勤賞を続けてきた徳川家康(北大路欣也さん)の出番が最後までなく、番組始まって以来、初の欠席回となった。
「青天を衝け」は、“日本資本主義の父”と称される渋沢栄一が主人公で、連続テレビ小説(朝ドラ)「風のハルカ」(2005年度後期)、「あさが来た」(2015年度後期)などの大森美香さんが脚本を担当。「緻密な計算」と「人への誠意」を武器に、近代日本のあるべき姿を追い続けた渋沢の生きざまを描く。
第13回は、栄一(吉沢さん)と喜作(高良健吾さん)は江戸で円四郎(堤真一さん)の妻・やす(木村佳乃さん)から一橋家のご証文を受け取り、無事京都へたどりつく。京都では朝廷が参与会議を開催。薩摩藩などが国政に影響力を持ち始める中、“一度全てを捨て、新しい世を作ろう”と語る松平春嶽(要潤さん)に、慶喜(草なぎ剛さん)は静かに怒りを募らせる。
一方、栄一からの文を喜んだ長七郎(満島真之介さん)は京都に行くことを決意。しかし道中で誤って飛脚を斬ってしまい捕らえられる。栄一の文も見つかり、幕府から目を付けられた栄一と喜作は追い詰められる……という展開だった。 >>33
平岡家の石高400石に御三卿用人(家老、旗奉行・長柄奉行、番頭に次ぐ上級職)の役高400表を合わせて800石はあったはず
1番の高給取りは家老・中根長十郎の3千石 主演俳優の顔が幼すぎると思うんだが
これ渋沢の何歳ぐらいまでを描くつもりなんだろう? 前回の長七郎の泣きの演説で、攘夷の不可能悟って止めたのかと思ってたら、未だに攘夷攘夷言ってて、しかも途方に暮れてて可笑しかった。 え、てことは波瑠も玉置浩二も出るの?NHK大河と朝ドラの世界が一緒って初めてじゃね? >>105
朝がきたには土方が出てきたけど新選組!の山本耕史だった
こっちは町田啓太
朝ドラの五代とは別物として演じてるとディーン本人も言ってる
それから玉置浩二じゃなく玉木宏な 昨日のやりとり見て吉沢亮と橋本愛は付き合ってるなと思った 家康のコーナーは中高生には面白くてタメになるし何より分かりやすいんだよな
三国志の紳々竜々みたいなもん 土方が町田啓太なら近藤勇は鈴木伸之だな
ビジュアル的には申し分ない >>36
史実として薩長は尊皇攘夷ではなくて倒幕
結果的に都合がいいから尊皇ぽくなっただけ
水戸は尊皇無しのひたすら攘夷
で、この後「倒幕→明治維新、中心が薩長」てのが歴史として分かりきってるんだから、そりゃ当然幕末モノは薩長が中心になって然るべき
その上、水戸は内部分裂で地獄を見るからな
大河みたいに大々的にやるようなドラマでは扱いづらいわな 武田耕雲斎が今はブレーキくれてるのになあ。長州の周布みたいなもんかw >>75
喜作が五稜郭まで一緒に行くから
やるんじゃないの >>111
もう劇団EXILEで新選組やればいいんじゃね >>117
いっそ
それはそれでいいかもなw
突き進む一体感は凄いもんだろ 占い
近藤勇さん、近藤勇さん役は、ぶりぶりざえもんが良いんじゃないですか
差異
そこまではなく 満島真之介がいい。
将来の大河この人を主役に立てるほうが良い なんか急に登場人物増えたなw
五代友厚とか土方歳三とか大久保利通とか色々出てきてた >>120
いい役者になったねえ
たまに勝村政信さんに見えるけどw >>73
その時の沖田役がしょこたんのお父上だったドラマだね
すごいイケメンだった >>121
このドラマ、大久保が殺された所から始めたほうが良かったんじゃないの? >>121
いよいよ幕末政治の中心地、京デビューだかんねw 渋沢栄一(天保11年ー昭和6年)
江戸時代に生まれて昭和初期まで生きていたのかよ
天保と言うと、遠山の金さんが北町奉行に在任していた頃に誕生したのか
江戸時代も遠い昔の話ではないんだな 物語のペース遅すぎるわ
栄一が山登っただけで一話使うとかMUSASHI並にペース配分おかしい 今回の大河は史料に基づいて史実通りに描かれている。だがそれが逆にアダとなっているような気がする。
いろいろなエピソードを入れているせいでやたら登場人物が多くなり、一つ一つの出来事が薄くなっている。あまり盛り上がりもなく淡々と物語が進んでいる感じ。 史実通りやってりゃアスペルガーが名作だと言ってくれるよ
アスペは表情も心情もわからないから山降りて意味不明なプロポーズしてもドラマが壊れることはない
ドラマは理解できないが文書と照らし合わせて合ってれば名作だから
馬鹿なアスペはネットの声だけはデカいが数が少ないから視聴率は絶対に取れないけどな >>80
小日向息子(長男)は松平容保役
その弟の桑名藩主も小日向息子(次男)がキャスティングされてる 渋沢栄一で大河が成り立つのかと思ったが面白い
役者がみんな役にハマってる
橋本愛を除いては 一ツ橋家の家臣になるきっかけが不自然過ぎる。作家はもうちょっとリアリティを持て。 土方出てきたけど、無言で栄一を睨みつけて終わり
演出稚拙過ぎて驚いたわ 大隈重信はまだ出てこんのか
高田早苗や市島謙吉も一緒に出るがいいな >>14
なぜか通りすがりの町人を斬って投獄されたのは史実。 円四郎の顔芸
やすの妄想タイムを見る栄一の顔
はい、忠誠を尽くします(棒)
でワロタ >>2
キングダムでは一番まともなキャラ、壁役だもんなぁ 慶喜をどう描くのかな。
敵前逃亡が美化されてるのが納得いかない >>144
川谷拓三のノコギリ刑と根津甚八の釜茹刑もう観た? 栄一の姉がキツネに取り憑かれた演技も
かなり棒だったわ >>133
ありがとう、若い俳優も知らない顔結構いるからまたチェックしてみる
>>148
あの時、阿片の話が出てたからてっきり姉様はどこかで阿片を口にしておかしくなったのかと思ったら全然違ったがその時の出来事が長七郎にも起きるって事だったのは驚いた
満島弟は模倣犯で上手いなって思った、苦手だけど 天狗党や新撰組が出てきてようやく幕末っぽくなってきた >>149
農家だから本当はケシの栽培もしてたかもね
そしたらヤバいけど >>2
栄一や慶喜以外のキャラにも結構力入れて描写するのはいいと思う >>136
新撰組は輩ですって感じのあっさり描写でいいじゃないか 堤真一が大河の主演をやらずに来たのはもったいないと思うけどこの役はあってて凄く良い >>163
昔の方が多かったろうね
辻斬りとか
水戸黄門の徳川光圀も若い頃に江戸でやってたんだよな >>152
あの辺ではそんなもん作れないよ
理由は言えないが >>139
明らかにヤバそうな奴いたら通りすがりも逃げるだろうに
普通の人間が突然刀抜いたわけでもないのに >>113
子供を抱くシーンの仕草見てたらそう思った あれ?これ幕末の話なのか
てっきり慶喜が隠居した後だと思ってた >>2
まあやりやすそうな役だよね
キャラたってるし >>165
クォーターとかだからな
白人の血が入ってる役者が
白人ぶっ殺す役やってるのは
なんかシュール >>161
せごどんは子ども優先の堤が断ったんじゃないの? >>177
現代の線が細い色白のイケメン代表なのにな
EXILEの輩ならむしろ登坂の方が面白かったかもしれんぞ?
このドラマは、
キャスティングも置きにいってるんだよな
視聴率欲しいのか… 過激思想にかぶれた深谷の庄屋の息子が
将軍の直参になって使節団として
パリに行くってファンタジー過ぎるよな。 >>180
事実は小説よりも奇なりだなw フィクションとして書いたらリアリティねえなって批判されるw >>170
ここにもきたか
アピールうんざり
天外者見たがイマイチだったぞ
遺作だからもてはやされてるだけで >>180>>181
だからその一番重要な
平岡との出会いと採用は
あんなんでいいのか?
あんなボンヤリとしたいきさつが史実として残ってるのか?
史実だからボンヤリなのか、
よく分かってないからボンヤリなのか
ドラマチックに描くと、それは史実と違う!厨が湧くからボンヤリなのか? >>183
一橋慶喜が京都に行く時に一橋家に家来がいなさすぎて警備に町火消しまで連れてるからほんとにあんなもんかもしれないよ。坂本龍馬が勝海舟の家に押しかけて弟子になった経緯に近い。一橋家は本来将軍家族で政治に直接口を出す家じゃなかったから実務をやる人の不足が深刻だったんじゃないかなぁ。 >>184
なるほど史実はよくわからんのだな
んで精一杯ドラマチックにして
あんな感じになったのだな
理解した 渋沢栄一は長く生きてて名士で
講演もして記録(自伝?)も録音も残ってるのに、
平岡との出会いのいきさつは話さなかったのか?
何か言いたくないことでもあったのだろうかね? >>179
剣道からのーの殺陣できるのと
NHKの時代劇に出てるからな >>186
平岡が街で若者と交流を持つことを好んだのは史実みたいでその中で渋沢栄一とも交流を持ったみたい。突き詰めると尊王攘夷を口にしながら幕府の中枢ともパイプを持ってた若き渋沢栄一の抜け目のなさが目立ってくる(笑) >>112
水戸は尊皇思想の総本山だよ。
将軍家よりも天皇を重んじる家風。
そもそも家康は、将来将軍家と天皇家が争ったときに、
どちらが勝っても徳川家が残るように、
天皇贔屓の徳川家(水戸家)を作ったのが始まりなんだから。 >>188
この大河だと、
そんな如才ないとこは見えてこない。
出会いも偶然だし、この人物に何がなんでも付いていこうってとこが見えない。
駆け引きも腹芸も見せてない。
まだ何やるかわからず京都で酒飲んでダラダラしとるだけやないかい。
深谷で商才見せてたあの頃の覇気が全然見えないぞ?
そこは脚色でもなんか見せとけよな。
まるで存在感がない。
ここから覚醒させてもシラケるだけだ。
だから視聴率低いんだよこのドラマ 土方歳三が全然副長っぽくなかった
若いイケメン出せばいいってもんじゃない >>192
この大河は主役を始めイケメン軍団が売りだよ
五代も土方も見目麗しさにツイッターが沸き返っている この時代は
武士より商人の方が読み書き計算できて
実務屋して使うには最適だったのでリクルートした。
この辺りの事情はわかるんで、
平岡の印象に残らない演説長々とやらせるよりは、
おまえらちょっとこの問題解いてみろ?
とかやらせた方が面白かったと思うんだけどね。
あー幕末史実厨がNHKに電突するから無理かー >>193
Twitterで騒いでるのが
いかに世の中の辺縁部の住民なのかよくわかる視聴率 脚本家も草なぎの演技に引っ張られた
無気力大河ってとこか >>186
先生が江戸滞在の間に、偶然にも一橋家との関係を生ずるに至れり。是より先、喜作は当時一橋家に禄仕せる川村恵十郎と交遊せしかば、先生もいつしか恵十郎と相知り、尋で其紹介により喜作と共に同家の用人平岡円四郎・用人格黒川嘉兵衛・目付榎本亨造・番頭助松浦作十郎等の知遇を受くるに至る。
円四郎は実名を方中《ケタチ》といひ、有名なる岡本花亭の第四子にして、出でゝ平岡氏を冒せる者なり、嘉永六年以来一橋家に仕へて、慶喜公に信任せられ、小姓より進みて用人となり、家中の権力其手に帰して威勢並ぶ者なし。
嘉兵衛も亦円四郎に次いで勢力あり、共に進歩的意見を有して、旧弊を革新するに力めたる有為の人々なりき。
されば円四郎等は時勢の漸く紛糾するを見て、之に備へんが為に、浪人にても百姓にても、相当の人物あらば、之を家中に招致して、其才能を伸べしむるの必要を感じ、著々実行したりき。
川村恵十郎は甲州駒木根《(甲州駒木野)》の関守の子なりしを円四郎に抜擢せられしなり、此他関東に於る一橋家領内の農民にして武芸に達せる者にて、新規召抱の命を拝したるも亦尠からず、恵十郎が更に先生等を紹介せるも、亦かゝる意志に出でたるが如し。
かくて先生等は屡円四郎等と会見して、時勢を論じ攘夷を談ずるに及び、円四郎等も其才能の凡ならざるを見て、有為の青年として之を愛撫し、先生も亦力めて彼等に接近し一橋家に対して多少の聯絡を附けんことを思へり。
「一橋家の家臣として奉公するは欲する所にあらざれども、御用達などの名義によりて出入を許されなば、事ある時には四五十人の壮士を率ゐて相当の軍務に従ふべし、されば何かの名義を以て家来分となることは出来まじや」との旨を円四郎等に請求せるに、円四郎はいづれ評議の上にて沙汰すべしとの事なりしが、他領の百姓にては急に其運びに至り難しとありて、遂に不調に帰したり。
先生が一橋家家来分の名義を欲したるは抑故あり、当時農民は帯刀する能はざる定めなるに、先生等は国事に奔走せるが為に、禁を犯して双刀を帯し、且つ常に慷慨時事を論じたれば、領主たる安部家より注視せらるゝあり、殊に此度非常の企を為さんとして、密に同志と往来し武器を購ふなど、嫌疑に渉ることのみ多ければ、よくせずば一身の危険を保し難し、故に一橋家を利用して領主の嫌疑を免れ、併せて計画上の利便に供せんとせるなり。
今や其希望は遂げざりしも、先生等の才能は頴脱して、夙に円四郎等の認むる所となり、深く信任せられたれば、なほ幾多の便宜なきにあらざりき。折しも此年八月十八日京都には政変起りて、慶喜公は其善後策の為に幕命を奉じて上京し、円四郎随行の命を受けしかば、乃ち先生と喜作とを招きて同行を勧めたり、思ふに行く行く機を見て家中に推挙せんの心なりしなるべし。
先生等は挙兵の期日近づきたれば、元より之に応ずるの意思なけれども、同志の人々が郷里を出発するに際し、相当の口実を藉るには、一橋家中の随員として上京するよしの名 抑初め私が例の暴挙の計画をした時代に江戸に往つたことがあるが、其時分に時折り平岡円四郎氏を訪れてゐた。これは一つには時勢の推移を知り、一つには又慶喜公の御心事を窺はんためでもあつた。
平岡氏は又私が農家に生れ乍ら、文学の話も出来、武の方も満更素人でない――謂つて見ると、全くの水飲百姓ではなさそうだ。相当の家庭に育つて、君臣父子の道も一通り弁へてゐる――と云ふ処を買つて呉れたようである。
自分として見れば、ヨシ深い根拠はなかつたにしても、一通り内外の事情を知り、国事を憂へて居つたから、一橋公は果して幕政を改革し得る人であるか、それとも柳に風式の態度を執る人であるか、其の辺のことが見究めたかつたのである。
平岡氏は岡本近江守と云ふ何でも五千石かの旗本で立派な家柄の人の伜で其処から平岡へ養子に行つた人である。
相当に学問があり曾ては評定所留役をも勤め、仲々弁説もさわやかで、人の揚足を取ることなどはそれはうまいものであつた。
私を此平岡氏の所へ連れて行つて呉れたのは、川村恵十郎と云ふ人で、其の前に口上を以て紹介して呉れたのは柏木総蔵と云ふ人であつた。柏木は菲山代官江川太郎左衛門の手附であつた。
川村は私と喜作と両人を平岡氏に引合せて「百姓育ちにしては、面白い奴だ」と、褒めた意味の言葉で紹介したらしく、其関係から文久三年の秋だつたと記憶するが、平岡氏が「一度連れて来い、会つて見やう」と云つたとかで、喜作と両人で行つたのが初まりである。
川村の人物に就ては、此人は時勢を見て騒ぐと云つたやうな処はなかつたが今日の儘では済むものでない、早晩幕政の改革は行はれる位の事は知つて居つたやうに思ふ。
私は此点に就て、まだ若年ではあつたが、日本外史などに教へられて「王政復古は当然来なくてはならぬ。幕政三百年にして人物は漸く低下し、其役に連る者は、お座敷勤め式の人が多くなり、気骨ある人は、却つて引込むと云ふ有様になつてゐる。此際此儘での推移は到底不可能である」と考へてゐた。
平岡氏に初めて会つたのは、根岸のお行の松傍の平岡氏の屋敷であつた。前にも話したように此時は丁度私等は暴挙について密かに相談してゐる最中であつた。 命の親 平岡円四郎氏
二十四才の時家郷を離れて以来、日本の事態は最も急速に移つて行つたので、その間に私の接した人は決して少数ではない。当初には、援助を受けたり、叱られたり、また訓戒せられた先輩が多かつた。
その中にも一ツ橋家の平岡円四郎と云ふ人は、謂はゞ私の命の恩人であり、且つ無名の一青年であつた私をよく引立てゝくれた、私にとつては忘るゝ能はざる人であるから、今日はその人の話をしやう。
平岡円四郎氏は岡本近江守、号を華亭と云つた人の息として、旗本の家に生れ平岡家に養子となつた人で、易や老子を読んだ、当時としては変つた学問を好んだ人である。
私が江戸で平岡氏に近づきになつたのは、先輩河村恵十郎と云う人の紹介で早くから刺を通じて居た。
然し一方は立派な武士であるのに、私共は一介の青年であつたから左程親しい交際は出来ない訳であるが、先方は愛すべき青年だと云ふ態度で接して呉れて居た。
屡々云ふ通り私共は攘夷論者であつたので、その方面から外交問題などを大いに論じ、氏から宥められたことも度々あつた。そして又氏は私達の素性を聞いたりなどしたが、身分の如何に拘らず新しい為すあるの人物を求めて使はうとして居たらしかつた。
平岡氏と談ずるに当つて私共は「慶喜公を佐ける貴方の意見はどうだ」とか「幕政は如何すればよいか」等に付て時々論じ合つたのであつたが、文久三年九月頃一ツ橋家は京都へ御守衛総督として詰めることになつたので、丁度江戸に居た私共は、根岸の御行の松の傍にあつた平岡氏の邸へ暇乞ひに行つたものである。
すると平岡氏は種々話の末「江戸でまごまごして居ては駄目だぞ、早く京都へ来たらよからう」と云はれたので、私共は「貴方の御家来にしてくれますか」と云ひ、平岡氏の家来として考へてもよいと云う程度の許しを受けた。
その時はまた攘夷論に就て議論し、烈公のお思召を実行したらどうか、と主張したりしたが例の暴挙のことは聞かせるべきでないとして語らなかつた。で平岡氏は九月初めであつたが、慶喜公のお伴をして京都へ上つて行つた。
私共はその後多少の計画を進めて居た処が、尾高長七郎が京都の事情を見て、夜を日に次いで帰り、暴挙の行ふべからざることを力説した。
従つて尾高惇忠先生も之を聞き、野心や慾心からと誤解されて死んではならぬ、同志の考は安藤対島守とか、井伊掃部頭とかを切ると云ふやうなことでなく、純然たる国家の改革であつて、少しも自己の利益の為めではないのであるから、自利や感情の為めと云はれては残念であるので中止する外はないと、長七郎の説に服従した。
そして着込六十枚ばかりと刀剣其他の道具類は兎に角処分した。が私共はどうしても家に居ることが出来ず、予て親の許しは受けて居たから、伊勢参宮と京都見物を名として、渋沢喜作と二人で上洛することにして郷里を出発し、十一月末に京都に着いたのであつた。此旅行は平岡円四郎氏の家来と称していつたのである。
そうして直ちに平岡氏を訪ね、珠数屋町の或る寺院で御目にかゝつた。丁度当時一ツ橋家は本願寺に仮宿して居られたが、後三条通りの若州屋敷へ移つた。
私と喜作とが京都へ行つたのは一ツ橋家へ仕官する望みではなく、唯京都の形勢を視察しようと云ふのであるから、頻りに天下の有志家に交りを求めて居た。即ち頼支峰の門人であつた松本暢とか、石橋とかまた各地から京都に来て居た鈴木(会津)岩佐(桑名)沖(遠州)花房(備前)などゝいふ人達と往来して、大いに時事を談じて居た。
また三日目五日目くらいには平岡氏を訪ねて居る内、一ツ橋の黒川嘉兵衛、猪飼勝三郎、榎本亨造、松浦作十郎などのお役人とも近づきになり「俺の家へも来い」などゝ云はれるやうになつた。
平岡氏は折もあつたら、私共を何時までもぶらぶらさせて置かず、使はうと考へて居たらしい。処が翌年春二月になつて平岡氏の親切から危うかつた生命を完うするやうなことが出来た。 澁澤談話かいな 大筋実話だったんやね
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