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杉浦 大介

 4月24日、ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンのコートには、ニックス戦に向けて準備するトロント・ラプターズの渡邊雄太の姿があった。ニックスのヘッドコーチ補佐を務める吉本泰輔さんとサイドラインでしばらく言葉を交わすその様子からは、数ヶ月前と違う自信と余裕が確実に感じられた。

 アメリカ東部時間4月19日。ラプターズが渡邊と本契約を結んだことを発表した。

 NBAの各チームは、最大で15人の選手と本契約を結ぶことができる。渡邊がこれまで結んでいた2ウェイ契約は、そこからさらに若手選手を対象に各チーム最大2人まで結ぶことが可能な契約で、試合数の制限などの条件付きでNBAでの試合出場も可能になる契約形態のこと。今回の本契約で、いよいよ正真正銘のNBAプレイヤーとなったのである。

■紙一重のサバイバルレース

 振り返れば今シーズン、序盤から活躍を続けたものの、八村塁との対決が注目された2月10日のワシントン・ウィザーズ戦を左足首捻挫で欠場して離脱すると、以降はプレータイムが激減。オフェンス面で壁にぶつかった感もあった。

 しかし、4月に入って再び出場のチャンスを掴むと、1週間弱の間に自己最多の得点を2度も更新するなど、上昇気流に乗っていつの間にか主力の役割を果たすようになった。

「この世界で生き残っていくのに、才能も含めて実力、努力、それから運も僕は大事だと思っています。1月に掴みかけていたチャンスを逃してしまい、なかなか2度目って来ないと思うんですけど、本当にありがたいことにもう一度、3月の終わりから4月にかけてチャンスをいただきました」

 ラプターズと本契約を結んだ翌日、リモート会見で渡邊はそう振り返っていた。実際にこの時期のラプターズは、故障者とリーグが定めた新型コロナウイルスのプロトコルによって欠場者が多かった。もしもフルメンバーに近い状態であったなら……。振り返っていくと、NBAでのサバイバルレースは本当に紙一重だという現実が改めて見えてくる。

 ただし、もちろん渡邊がこの過酷なレースを切り抜けることができたのは運ばかりが理由ではない。本来はジャーナリストとして中立でなければいけないはずの筆者だが、彼の姿を長く見てきただけに、今回はそれを明らかにしていこう。

「アメリカ人に勝つために、彼らよりいい選手になるためにはどうしなきゃいけないかっていうのを考えて、毎日努力して、上手くいかない時もたくさんありました。それでも節目節目に努力して良かったなって思える瞬間がいつもあったんです。そういう機会に恵まれたのもすごくありがたかったですし、やっぱり自分がやり続けた結果かなと思うので、今後も続けていかないといけないなって思ってます」 

 今では目を輝かせてそう語る渡邊だが、カレッジ時代の4年間、そしてNBAの試合に出るようになったメンフィス・グリズリーズでの2年間も、現在の位置に辿り着くことが常に有望視されてきたわけではなかった。

 渡邊と初めて出会ったのは、彼がまだジョージ・ワシントン大の1年生だった2014年11月。かつてニュージャージー・ネッツの本拠地だったプルデンシャルセンターでのことだった。

 当時の広報の紹介でロッカールームで顔を合わせた際には、同僚たちが引き上げたあとに一人で座っており、こちらから声をかけないとほとんど口を開かず、大人しさが印象的だった。それでも聡明な語り口と礼儀正しい態度は今と同じ。質問の意図をすぐに理解し、的確な答えを返してくる頭の良さは際立っていた。

 また、「様々なことをこなせる選手」と事前から聞かされていたが、実際にプレーを見てもその多才さには驚かされた。サイズ、スキルに加え、このような性格の良さ、聡明さも持ち合わせているのであれば、このまま順調に伸びればNBA入りも期待できる素材だとすぐに考えるようになった。

 ただ、筆者は渡邊が在籍していた間、多くのジョージ・ワシントン大のゲームを取材したが、日本人、アメリカ人を問わず、NBAに詳しい関係者から「NBAは厳しい」「あれくらいの素材はアメリカに幾らでもいる」といった意見も何度となく聞かされた。

 日本人としては大型の206cmの身長とはいえ、バスケットボール選手としてみれば身体能力や得点力はカレッジレベルでも飛び抜けているわけではなかっただけに、伸びしろに疑問を持った人が多かったのだろう。また、メンフィスでの2年間でも、「これ以上は難しい」とささやく関係者は少なからず存在した。