「相手男性に求める年収は4000万以上」といった歯に衣着せぬコメントで知られ、一世を風靡した医師・タレントの西川史子さん。現在は医師としてクリニックでの仕事を中心に規則正しい生活を送り、公私ともに軽やかなシフトチェンジを果たしました。「毒舌キャラ」で知られた当時、意外にも実際には「心配性で自分に自信がなかった」といいます。4月に50歳を迎えた西川さんに、これまでの歩みを振り返っていただきました。(全3回の3回目/#1、#2から続く)

◆ ◆ ◆

極端だった母の教育方針
――「毒舌」「自信家」というパブリックイメージがあるように思うのですが、結婚中のエピソードをお伺いしても、西川先生は真面目で努力家というか。

西川史子さん(以下、西川) 心配性なんですよね。大学受験の時も過去問3年分では安心できず、1971年の創立当時から全部集めて解きました。小学校の時から夏休みの宿題は7月中に終わらせていましたし、2泊の香港旅行のために用意したガイドブックは8冊。そんな性格だから、思いつきで明日からインドへバックパックで行く、みたいなことは絶対できないですね。

――では学生時代は真面目なタイプだったのでしょうか。

西川 狂ったように遊んでいましたが、家に帰ったら3分後には参考書を開いているような生活でした。母がとにかく教育熱心で、かなり偏りがあったんですけども、医者になるためには他のものをすべて犠牲にしてもいい、みたいな教育方針だったんです。朝帰りしてもまったく怒られなかったけど、とにかく勉強だけは必ずやれと。お小遣いも好きなだけくれたので、その散財っぷりから大学では「湯水ちゃん」と呼ばれていました。

――お母様の教育方針は大胆なものが多かったそうですね。

西川 極端ですよね。家庭科や美術といった医者になるのに関係のない教科の宿題は全部、母が業者に外注していました。バレンタインデーのチョコも、パティシエの人に「少し下手に作ってください」と注文して、すごく嫌がられていました。

フラれるのが怖かったから二股をかけていた
――それはすごいですね。恋愛や結婚についてもお母様からアドバイスはあったのですか。

西川 「股をかけろ」というのが母の方針で。相手のルックス、学歴、収入、生い立ちなどを全部数値化して、いろんな男を比べろと言っていました。私自身、合コンには誰より遅れて行って、どんなに楽しかったとしても一番早く帰るとか、どんな振る舞いをすれば男にモテるかを研究し尽くしていたので、20代までは相手を選ぶのが大変なほどでした。

――しかも大学在学中には「ミス日本」でフォトジェニック賞を受賞されて、「西川無双」ですよね。

西川 今思えばそれがよくなかったんですけどね。フラれるのが怖かったから二股をかけていた……ということもあるし、挫折の経験がないから極端に失敗や負けを恐れていました。自分に自信がなかった裏返しですよね。

 数値化できる男性をずっと求めてきたわけですが、離婚を経験した今となっては、楽しい時間を一緒に過ごせる、気の合う人の方がよっぽどいいなと思います。そういう相手がまた見つかればいいですね。

研修医の月給は5万円。働く大変さを学んだ
――42歳での離婚のあと飼い始めた愛犬を突然亡くされた経験から、体調不良に陥ってしまった。その当時までは「挫折知らず」で「人生初の挫折が40代」だった……という西川先生は、医師としてのキャリアを歩まれるなかでつらかったことはありますか。

西川 西川家は代々医師の家系だったので、母にお尻を叩かれながら、とにかく医者にならなくてはと必死に勉強して医師免許も取れました。でもいざ研修医になってみると月給は5万円。それまでバイトもしたことがなかったですから、働く大変さを身をもって学びました。

 最初は今やっている美容皮膚科を専門としていたわけではなく、整形外科にいたんです。でも力がなくて患者さんの身体を支えられなかったんですね。これは致命的だと感じました。そんな時にたまたまボトックス注射を日本に広めた松倉クリニックの松倉知之院長に出会って、「これだ!」と思いました。履歴書を持参して「雇ってください」とお願いして、今に至ります。

2021/05/02 11:00文春オンライン
https://news.nicovideo.jp/watch/nw9291397?news_ref=50_50
https://i.imgur.com/ayN2qjJ.jpg