誰にでもまっすぐな石橋

 放送作家の海老原靖芳氏も「貴明は誰にでもまっすぐだった」と振り返る。'83年のある日、自宅に電話をかけてきた石橋の悲壮な声を、よく覚えているという。

「開口一番、貴明が“エビさん、助けてください!”と」

 所属事務所に内緒で仕事を受けたことがバレて無期限謹慎を食らった、というのだ。テレビへの出演も白紙に。そこで、お笑いライブを開催して芸を磨きたい、という。

「ついては僕に“コント台本と演出をお願いしたいんです”と。それも“ノーギャラで”って(苦笑)」(海老原氏)

 ぶしつけな依頼にも聞こえるが、それが石橋らしさだという。

「貴明の言葉って、彼の実直さが伝わってくるんです。笑いにかける熱が電話越しに伝わってくるというか。胸にスッと入ってきた。それで引き受けたんです」(海老原氏)

 渋谷の小さなライブハウスで行われた単独ライブは大成功。その後、とんねるずは飛ぶ鳥を落とす勢いでテレビ界を席巻していくのだが、この話には続きがある。
石橋が和也さんに託した言葉

「僕の担当番組で“とんねるずをゲストに呼びたい”という話になった。でも彼らは超売れっ子になっていて、番組側が出演交渉したけれど事務所から断られた。しかたなく昔のよしみで私から貴明に直接頼んでみることになって。電話に出た貴明は“わかりました。エビさん、少し時間ください”と。すると事務所から本当に“出演OK”の返事が来たんです」(海老原氏)

 実はその日、石橋たちは地方で別の仕事があった。

「“車や電車移動では間に合わない”と現地からヘリコプターで飛んで来てくれた。30分の収録を終えるとヘリでトンボ返り」(海老原氏)

 苦境に陥った自分たちに手を差しのべてくれた海老原氏の恩を、忘れていなかった。

「貴明には“裏”がないんです。この業界は裏表がある人間ばかりだけれど、彼にはそれがない。ただただ“笑いをやりたい”っていうだけ。それが、みんなに好かれた理由じゃないかな」(海老原氏)

 石橋とひばりさんが最後に言葉を交わしたのは、ひばりさんが亡くなる3か月前。ニッポン放送のラジオ特番『美空ひばり感動この一曲』──ひばりさん最後のメディア出演となる現場だった。

 かねてから患っていた病気が進行し、体力が落ちてしまったひばりさんは、それでも気力を振り絞り、自宅からこの番組に出演することになった。10時間ぶっ通しという異例の長時間番組には、萬屋錦之介、岸本加世子らが入れ替わり立ち替わり自宅を訪れ、ゲスト出演。その1組として石橋たちも駆けつけた。

「タカさんから、かけられた言葉が今でも残っているんです。たったひと言“和也、ママを守ってくれよ……!”って」(加藤社長)

 そう言うと、貴明は真っ赤になった目をぬぐい“年の離れた友達”お嬢の待つ部屋に入っていったという。