【野球】 ロッテ前身球団の“消えた野球場”…南千住にあった「東京スタジアム(味スタじゃない方)」今は何がある? [朝一から閉店までφ★]
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posted2021/01/23 17:04
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1962年5月に開場した幻の東京スタジアム。カクテル光線も眩しく「光の球場」と呼ばれた
text by
鼠入昌史
photograph by
Sankei Shimbun
今回は、ロッテのお話である。
と、いきなり話が脇にそれるが、筆者は阪神ファンだからロッテ打線はとてつもなく強力だと思っている。言わずもがな2005年の日本シリーズ、33−4とかいうアレで、阪神はロッテに4連敗してしまった。そのインパクトが強すぎて、15年経った今でもロッテ打線など抑えられるはずがないと恐怖におののいている。そういうわけで、ロッテの話をするのはなかなかツラいものがある。せめてもの救いは、今回のテーマがロッテはロッテでもその前身「東京オリオンズ」と呼ばれていた時代の物語であること。安心して話を先にすすめることにしよう。
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2005年の日本シリーズ。甲子園の第4戦で優勝を決めた千葉ロッテ ©BUNGEISHUNJU
(味スタじゃない方の)東京スタジアムとは?
今の千葉ロッテマリーンズが東京オリオンズと名乗っていたのは1964年から1968年の5年間。ホーム球場は東京スタジアムだった。東京スタジアムというと、京王線の飛田給駅の近くにあるアレか、と思う人もいるかも知れない(「味の素スタジアム」はネーミングライツによる名称で、正式には東京スタジアム)が、もちろんまったくの別モノだ。オリオンズの東京スタジアムは、東京・南千住にあった。
東京スタジアムは大毎オリオンズ時代の1962年に開場し、1972年をもって役割を終えた。我が国の右肩上がりイケイケドンドンの高度経済成長時代にたった10年、東京の下町にあったいわば“幻の球場”だ。町工場が建ち並ぶような下町に突如現れて、カクテル光線も眩しく人呼んで「光の球場」。場所柄か、下駄を履いて観戦に訪れるお客も少なからずいたという。そんななんだか楽しげな野球場が、東京の下町のど真ん中にあった。となれば、今は一体どうなっているのか確かめに行くしかない。そういうわけで、常磐線に乗って南千住駅にやってきたのである。
https://number.bunshun.jp/articles/-/846762
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コーチがそうアドバイスした球場だな いい球場だよな
これからはもうこんな都心に造れないだろ
築地でさえ無理なんだから、都下の何処かで最高に都心近くなら例えば読売ランドとかになるんだろな
お台場に無理して造れないかな未だ空き地有るよな 都心からは外れるけど23区内に限定すれば、京葉線の新木場や葛西臨海公園辺りなら
球場を作れるくらいの土地はまだある。 >>5
tvkで放送されたその回
東京スタジアム目当てでまだ残してある 泪橋とかガスタンクの方かと思ったらまるっきり反対方向か 大映の倒産から所有したのはロッキード事件の小佐野賢治だったのか
ロッテに買い取れと迫って買い取らなかったから封鎖したとはホーム球団があったのに錬金術のために閉鎖されたとは悲しいな >>86
大映に合併する前の大映と毎日が両方とも後楽園だった >>110
当時はフランチャイズが曖昧なのもあるだろうけど
とにかく地方球場での開催が多い
1954年に高橋ユニオンズが参入するが後楽園球場
ではなく川崎球場を本拠地とした
また松竹が共同経営から撤退した大洋ホエールズ
は1955年から関西から首都圏に移転することとなり
同じく川崎球場を本拠地とする >>108
戦前の洲崎球場だな。低地なので、時々水没したとか。 ガキの頃に都電乗って行ったことがあるわ
今は当時も面影はなんもなし >>113
いや暗黒時代前夜って感じよ
1972→73年がパ・リーグ最大の激動の時期
東映が日拓に身売りしライオンズもペプシへの
身売りを目指すものの破談
ここでロッテの中村長芳オーナーがライオンズ
の買収を決意しロッテは金田正一が監督に
そしてさらば東京スタジアムという流れ 1949年 後楽園球場
↓
1962年 東京スタジアム
↓
ジプシーロッテ(1973〜1978)
宮城球場、後楽園球場、神宮球場、川崎球場、静岡草薙球場、西京極球場etc
↓
1978年 川崎球場
↓
1990年 千葉マリンスタジアム 後楽園と同じで内野も天然芝でスコアボードも
手書きじゃなかった
やはり甲子園とドームがガンだなあ >>83
競輪場、競馬場などは二階席ある施設が結構あった 1970年の春にサンフランシスコ・ジャイアンツがハワイキャンプの直後に来日して
日本でオープン戦やって東京球場でロッテと戦ったんだけど、
ゲイロード・ペリーっていうスピッツボール、不正投球疑惑の300勝投手が
榎本喜八と対戦して榎本がホームランを叩き込んだ。
東京球場のバックネット裏で観戦していた故伊東一雄が、ペリーの投げたボールが
ファールボールになった時、ボールを回収させてボールを見ると茶色の謎の液体が
付着していて、伊東は、それを自分の記念コレクションの1つに加えた。 >>119
球場自体が遺跡の上に建っていた平和台球場… >>115
黒い霧からライオンズ移転当初
つまりまるっと70年代がパ・リーグ暗黒期
フライヤーズとライオンズを中心に
看板選手が次々とセ・リーグに
格差トレードで引き抜かれてガタガタになった スポーツセンターのとこだろ?
今も裏側に草野球場なかったっけ
そういや死んだ爺ちゃんが、昔ここはプロ野球の球場だったって言ってて当時冗談で言ってるもんだと思ってたな >>18
東京スタジアムはロッテが買わなかった。
カネやんがチャチャ入れたのは
川崎移転時、横浜スタジアムは
人工芝で嫌という理由で川崎へ 永田ラッパはオリオンズ愛に満ち溢れていたがプロ野球経営者としては失格
重光武雄はオリオンズ愛もマリーンズ愛も全くなくそもそも野球に興味無かったが何故か球団を売らなかった >>126
アホか
ロッテの横浜スタジアム利用は単純に断られただけ
金やんは関係ない >>94
現代野球じゃ絶対に使えないよ
川崎球場が閉場するときにロッテと横浜がオープン戦やったけど、狭すぎてホームラン連発したからね
それよりさらに狭い東京スタジアムなんか使ったらそこだけ別物になる >>129
小坂がホームラン連発してたやつなw
しかも飛ぶボール全盛期だったっていうw つーか当時の球場ってみんな狭いじゃん
因みに川崎は両翼87m右中間102m左中間103m中116m
無駄にフェンスだけは高かったけど
東京スタジアムは川崎よりはまだ広い グラウンドがもう少し広かったら生き延びていたかもね。 >>127
広告宣伝効果は抜群だしね
日本国民でロッテを知らない人ってほとんどいないでしょ 日本全国津々浦々、北は北千住から南は南千住まで
でお馴染みの南千住か >>48
もう!?やっぱ海沿いだと傷みが早いんかな >>137
30年経つしいい頃合いなんじゃない?
甲子園の異様な頑丈さが不思議 >>130
小坂は川崎球場のお別れオープン戦で一イニング2ホームランという快挙を成し遂げたなw >>124
ホークスとブレーブスはトレードの巧さで戦力を維持してたけどな >>124
いやファイターズの場合は三原脩球団社長が
フライヤーズの主力を嫌ってたせい
ファイターズの名付け親になった女子がファン
だと言ってた新美敏まで放出しちゃった
主力をすぐ放出するのはライオンズの体質
豊田泰光が国鉄に高く売れたことに味をしめた
んだろうね >>127
岸信介からの頼みだったから
数年でロッテを飛び出しライオンズを買収した
中村長芳も岸の秘書だったし 関西も
大阪球場に西宮球場、日生球場、藤井寺球場
一杯なくなったな 内野席にゴンドラ席のある野球場って、趣きが良いなあ。
現在だと、東京ドームくらいか。 >>145
フライヤーズの末期も大橋、種茂、田中調、高橋善正辺りを放出してるよ。東映としてか日拓になってたか忘れたけど >>140
東京ドームも建て替えとか言われてるしな >>154
三井不動産がTOBしたし、100億かけて改修するというから建て替えはしないだろ >>152
打てない大橋穣と強打の阪本敏三を交換してくれる
って話なんだから東映も飛びついたでしょ 1970年代はパリーグ暗黒時代だからなあ
ペプシコーラと並ぶ「マイナーなモノの代名詞」扱いだった >>155
まあ建て替えしようにも土地無いし、後楽園の日照権の問題もあるから、改修しか無いんだろうな
だから、豊洲移転後の築地とか新国立競技場のオリンピック後の利用法に野球場を造って移転っていう噂話もあった位だし >>98
全日本プロレスでパイプ椅子叩きつけられて椅子がぶっ壊れタフさをアピールする外人レスラーを思い出す なんかの小説で、身代金の受け渡し場所に指定されてたのだけ覚えてる
なんて作品だったかは忘れた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています