0001征夷大将軍 ★
2021/01/21(木) 07:59:22.65ID:CAP_USER9https://number.bunshun.jp/articles/-/846706
2017年3月、早稲田大学スポーツ科学部に合格。國學院久我山中学・高校で6年間ラグビーをしていたこともあり、ラグビー部に入部しようと考えていました。しかし、ハードな内容で有名だった入部テストを甘く見ていた私は準備を怠っていました。すぐにケガをして、3日目にして自ら入部を断念。早々に「早稲田でラグビーをやる」という目標を投げてしまったのです。
大学で何をすればいいのかわからなくなっていた時に出会ったのが、大学の体育会各部を取材する「早稲田スポーツ新聞会」というサークルでした。初めて取材したのは春のラグビー早慶戦。この取材を機に、3年間にわたるラグビー取材生活が始まりました。そして時が流れるにつれ、どんどんラグビーの魅力に捕らえられていったのです。
■国立競技場での早明戦、兄の言葉
再挑戦を決めた大きなきっかけとなったのは、20年1月11日の国立競技場での大学選手権決勝・早明戦でした。この試合は、3年生で任期を終える早稲田スポーツ新聞会での最後の取材でもありました。そこで早稲田は11大会ぶりの優勝という快挙を達成します。その一幕を見た私は、「自分もラグビー部に入っていたら、あの場で『荒ぶる』を歌っていたのだろうか」という感情に駆られ、気づくと涙を流していました。
もともと、早大ラグビー部に憧れたのも兄がきっかけ。高校3年時に観に行った早慶、早明戦……その眩しいほど輝く舞台に立つ兄に憧れたのです。しかし、自分でも驚くほど、挑戦するという意欲が湧いてきたのです。ただ、大学4年を迎える時期に入部テストを受けることは容易ではありません。突拍子もない挑戦に不安や恐怖が募り、簡単に決断することはできませんでした。決断した翌日、すぐに兄にその旨を伝えました。
「中途半端にはやるなよ、きついからな」
その言葉は今も胸に刻まれています。ラグビー部への挑戦は、同時に“留年”を意味します。大学最終年にラグビー部に入ることは、就職活動と並行してできるほど甘いものではないと思ったからです。
常々「留年はありえない」と言っていた両親には反対されるだろうと決めつけていましたが、逡巡なく私の決断を了承してくれました。そこで自分がいかに恵まれた環境にいるのかを理解することもできました。
■覚悟して臨んだ入部テスト
その時点で私には3年ものブランクがありました。トレーナーの友人に練習メニューを相談し、ジムや河川敷で3月下旬にある入部テストを目指し、ひたすらトレーニングに励みました。
そして迎えた入部テスト。高いレベルについていけるか、そもそも下級生の選手たちに受け入れてもらえるのか。不安は募るばかりでしたが、いざ練習が始まるとあっという間に過ぎて、無我夢中で必死に食らいついていきました。
しかし、そこから数日が経った頃、新型コロナウイルス感染症拡大の影響で全ての部活動に自粛要請が出ました。緊急事態宣言の発令も重なり、そこから長期間に渡ってチームとしても活動できない時間が続きました。
入部が決まったのは、そんな先が見えない状況下でのオンラインミーティング。相良南海夫監督が丁寧に読み上げる新入部員のリストの中に、私の名前もありました。少し時間はかかりましたが、ようやく目標にしてきた早稲田ラグビー部の一員になれたのです。
福島合宿の9月13日。流通経済大学とのC戦で、高校生以来となる試合に出場を果たしました。出場時間こそ短かったですが、早稲田ラグビー部の一員として試合に出場できたことにこれまでに経験したことのない喜びを感じました。
その後は関東大学対抗戦に向けて走り出したトップチームと練習する機会にも恵まれ、嬉しさの反面、同時に圧倒的なスキル不足を痛感。昨年まで取材を通して追いかけてきた選手たちと対峙したことで、いかに自分が「赤黒」まで遠いのかを再認識しました。
浪人して早稲田ラグビーの門を叩く者はたくさんいます。ただ、私のように4年を迎えたタイミングでの挑戦は珍しいことだと思います。それでも挑戦したのは、やり残した思いを抱いたまま卒業したくなかったからです。
1年間は力不足を痛感することばかりでしたが、この経験を糧にして、早稲田ラグビー部の一員として恥のないように過ごし、選手として人として成長ができるよう日々精進していきます。無謀な選択を許して下さったラグビー部や家族への感謝とあの日の兄の言葉の胸に、そして憧れの「赤黒」のジャージを掴むために、新シーズンもラグビーに一生懸命挑みます。応援よろしくお願いします(長文のため抜粋)