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【芸能】黒柳徹子、自分の結婚よりパンダを心配していた!? [爆笑ゴリラ★]
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2021/01/02(土) 21:36:57.30ID:CAP_USER9?2BP(0)

1/2(土) 16:56
女性自身

黒柳徹子、自分の結婚よりパンダを心配していた!?
(撮影:下村一喜)
日本パンダ保護協会の名誉会長を務める黒柳徹子さん。幼少期からパンダを愛し、研究を続けてきた、パンダへの愛にあふれた方です。パンダ愛について、存分に語ってもらいました。

【写真あり】徹子さんのパンダ愛を感じるアイテムたち

私は子どものころからパンダを研究していました。私がまだ小学校低学年のころ、報道カメラマンをしていた叔父がニューヨークからおみやげにパンダのぬいぐるみを持って帰ってきてくれてからです。中国から初めて海外に生きたパンダが行ったのがアメリカなんですね。スーリンと名付けられたパンダが、アメリカ中の人をとりこにして、アメリカでパンダブームが起こっていました。街にはパンダグッズがあふれていたそうです。今でもそのぬいぐるみは持っています。ボロボロですけど。

戦争中も私はリュックに入れて持ち歩いていたんです。戦争は悲惨でした。父も出征し、東京も毎晩空襲があったので、私は毎日ぬいぐるみと一緒に避難していました。小さなリュックに閉じ込められているのがかわいそうで、朝晩出したり入れたりを繰り返す私に、「見ているだけでも大変だから、おもちゃは入れたままにしておけば」と、母はあきれ顔でした。

東京もいよいよ危ないと青森に疎開。そのリュックの中にも、パンダは忍んでいました。しばらくして東京の家が焼けたと風の便りに聞きました。父にもらった中国みやげのクマのぬいぐるみは焼けてしまいましたが、パンダのぬいぐるみだけは青森で生き延びたのです。

実は、このぬいぐるみを一度洗ったことがあります。ドロドロになってしまったので、洗って玄関のそばの窓のところに干しておいたのに、帰ったらなくなっていました。母に聞いたら、「捨てたのかと思ったわ。あんまり汚いから」。私は慌てて外に飛び出しました。電信柱のところにゴミと一緒にまだありました。以来、ずっと一緒で今も手元にあります。

■ロンドンでパンダと感動の初対面

ここから私のパンダ人生が始まりました。当時はパンダという名前すら、存在すら、日本に住む私には入ってきていませんでしたので、単なる白と黒の漫画みたいな模様だとずっと思っていました。私が持っているこの白と黒のユニークな模様のクマがデザインではなく、生きて存在すると知ったのはもう少し先のことでした。

パンダについては、調べたくても資料がありませんでしたが、研究は細々と続けました。パンダという名前だと知ったのも、うんと後のことです。もちろん、独学で調べました。私が仕事を始めたのが1953年。その5年後、チチというパンダがロンドン動物園に動物商から連れてこられたことがわかりました。

今はもうなくなってしまったけれど、銀座に「イエナ」という洋書を扱う書店があって、写真集をソーッとのぞき見して、パンダが載っていたら迷わず買う。そう決めて本屋通いを続けました。1年に1冊あればいいほうでしたが、そうしてつくったスクラップブックは、いつしかパンダの記事でいっぱいになりました。

あるとき、当時、上野動物園の園長だった古賀忠道さんとNHKラジオで対談することになりました。ラジオが終わった後、「パンダの研究をしているんですけど、パンダってどこの動物園にいるんですか?」とうかがってみました。「中国本土の四川省、ロシア、北朝鮮……」そう教えてくださった。イギリスの動物園にパンダがいることもおっしゃっていたし、スクラップの情報とも合っていました。

そして、ついにその日がやって来ました。チチのいるロンドンの動物園にようやく行くことができたのです。1968年のことでした。実際に見るまでは、大きさの見当だってつきませんから、笑いがこみ上げてしまうほど楽しみでした。ロンドン動物園って公園の中にあるんですね。本当は会いたくて会いたくて駆け出したいのに、私はゆっくり、ゆっくり歩いてパンダ舎に向かいました。大事なものは最後に食べたい、そんな心理が働いたのかもしれません。

ついに対面した念願のパンダは、芝生いっぱいのスロープのような庭というのか、見ている私たちよりかなり深いお掘の向こうにいました。「かわいい!」パンダってもう首から背中にかけて真ん丸なんですね。足が短くて、まさにぬいぐるみ体形。ぬいぐるみって、全長の3分の1、顔の大きさがあるとかわいいって言うんですけど、パンダもそうだったんです。

https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20210102-00010003-jisin-000-1-view.jpg
https://news.yahoo.co.jp/articles/362a9426909fe168fddb1bf0bcb392a9ee6bede4
>>2続く
0002爆笑ゴリラ ◆GORI./qCTM
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2021/01/02(土) 21:37:05.01ID:51yh9d0d0?2BP(0)

何をしてもかわいい。寝っ転がっても、座っても、歩いてもかわいい。尻尾がなくて、白い毛が垂れているのもかわいい。足のかかとの毛が履きつぶしたスリッパのようになっているのもかわいい。もう全部がかわいいんですもの。

驚いたことに、チチの隣の庭には、もう1頭パンダがいたのです。ロシアから結婚のためにやって来たオスで、名前はアンアンといいました。帰国後、マスコミにパンダの話をしたことが、雑誌に“アンアン”って名前がつくきっかけのひとつになりました。

「あの結婚、うまくいくかしら」って言ったら、週刊誌に「変な動物の結婚を心配するより、黒柳徹子は自分のことを考えたらどうだ」って。ちゃんと「パンダ」って言っているのに「変な動物」って書かれたんですよ。それくらい、当時はみんなパンダを知りませんでした。

ついに日本にパンダが上陸

パンダ熱に火がついた私は、イギリスの文献に「西暦685年、日本の天皇へ贈り物としてパンダを2頭、船に乗せた」と書かれてあることを知り、週刊新潮の掲示板で情報を募りましたが、情報提供は皆無。飛鳥時代に日本にパンダが来ていたのかどうかは、いまだわからずじまいです。恐らくガセネタというものでしょう。

'71〜'72年、ニューヨークに住んでいたとき、ニクソン大統領が中国から子どものパンダ、リンリンとシンシンをもらって帰ってらっしゃいました。ワシントンに見に行ったら、外に大きな箱が置いてあって、漢字で「中米友好記念贈呈」と書いてあったんです。うらやましいなぁ、日本もこうなるといいなぁと思いました。鑑賞時間はわずか30秒、このとき奇跡が起きました。私が境界ガラスのそばまで近づくと、リンリンもすぐそばまで近づき、ガラス越しに私にキスしてくれたのです。私はうれしくて見ず知らずの方にカメラをお渡しして、撮影していただきました。ところが、ほどなく日本に帰国したら、田中角栄総理が訪中って騒いでいて、私は首相官邸に電話しようかと思ったんですよ。もし毛沢東さんが「大熊猫(パンダの中国語)あげます」とおっしゃったら、「そんな大事なものを」と、珍獣中の珍獣だってことを理解して受け取ってほしい、と言おうかなぁと思ったんです。でも政府の方に知り合いもいなかったし……。そうしたら、案の定、大平正芳外務大臣が「それは熊と猫の中間みたいなものですか?」みたいなことをおっしゃったと新聞に書いてありました。やっぱり言っておけばよかったなって悔いが残りましたね。

'72年10月28日、日本に初めてのパンダ、ランランとカンカンが来日しました。私はドラマの影中でしたが、我慢しきれず、「ちょっと用事が」なんてリハーサルをごまかして、上野動物園の裏手で待っていたんです。トレーラーに乗せられ、羽田空港から時速40キロくらいでやってくると報道されたので、到着時間を計算して待っていたんです。夜8時くらいかしら。ねずみ色の大きなコンテナが運ばれてきました。姿は見えなかったけれど、うれしくて「わーっ」と叫びました。それから6日後の11月3日、パンダの贈呈式があり、私もお招きいただきました。まずカンカンが出てきて、次にランランが出てきました。ワシントンのリンリンとシンシンは、男の子のシンシンが内気で、女の子のリンリンが活発。日本はその逆でカンカンが活発、ランランは内気。顔も違っていて、ランランはちょっと寄り目、カンカンは離れ目でした。かわいかった!

中国のいちばん偉い動物園の方に紹介していただくと、「この間の夜、外にいたでしょう。好きなんですね」とニコニコしていらした。上野動物園の方にも「来ていましたね」と言われ、みなさん「本当にパンダが好きなんだな」と思ってくださったに違いありません。その後のパンダ・フィーバーは大変なもの。日本でもパンダは一気にメジャーな動物になりました。来日からしばらく、私は毎日のように上野にパンダを見に行っていました。そのころ、動物園のご好意でカンカンに会わせてもらったんですね。するとカンカンが私のところに寄ってきて、やさしく私の頭に手をのせて、“いい子いい子”してくれたんです。ほんとにパンダはやさしい動物なんだなぁって思いました。パンダって神秘的なんですよ。野生動物なのに、朝、飼育員さんが起こしに行かないと、ずっと寝てるんです。30分ぐらいは起こさないとダメなんですって、寝ぼけてて。

そして、パンダはとても心やさしい動物です。あるとき、誰かが野生のパンダを撃ったら、パンダは襲ってこようともせずに、悲しそうに撃った人を見つめて、静かに死んでいったそうです。これも聞いた話ですが、ビスケットをパンダにあげたら、パンダはそれを半分に割って、池のそばにいたアヒルにあげたっていうんです。イギリスの動物園です。
>>3続く
0003爆笑ゴリラ ◆GORI./qCTM
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2021/01/02(土) 21:37:11.71ID:51yh9d0d0?2BP(0)

■豆豆(トントン)やシャンシャンなどパンダの名付けに関わる

'79年9月4日、ランランは自然妊娠後に妊娠中毒症などの合併症を起こして死んでしまいました。そのとき何千通という手紙が連日、全国の子どもたちから上野動物園に殺到したんです。それを中国の偉い関係者が目の当たりにして、すぐにホァンホァンをくださった。普通、中国は外国にパンダを贈呈しても、死んだからってまた次ということはないんです。

だからあのときはうれしかったです。私が中国政府からパンダのことで招待されたのは、'84年のことです。そのとき、中国の新聞に「大熊猫博士・黒柳徹子女史」て出ていてビックリしました。

実は私、パンダの名前もつけたことがあるんですよ。'01年の『日立 世界ふしぎ発見!』(TBS系)のトップ賞の賞品として、パンダ1年分の飼育費用と、四川省臥竜地区のパンダ保護地域で生まれた赤ちゃんパンダの命名権をいただいたの。じゃあ、どうしよう。かわいい名前にしなくちゃ――。

私が'81年に出した『窓ぎわのトットちゃん』は中国でも翻訳され、たくさん出版されています。トットは、中国語で「豆豆」。名前は豆豆ちゃんにしようと決めました。私が名付けたトットちゃんは、少し前に聞いたら、ヤンチャでヤンチャで隔離されてしまったとか。誰に似たんでしょう。困りましたね(笑)。

'17年に日本で生まれたシャンシャンも、動物園に頼まれて、日本中から応募された名前の審査員になりました。今までのパンダの赤ちゃんの名前にはない、新鮮な感じでとっても気に入りました。小さな子どもでも覚えられるし、漢字(香香)にしてもかわいいでしょ?

シャンシャンを境界のガラスの外から見ていたら、近寄って来て、私の顔に顔をすり寄せてくれたこともありました。あのあどけなさったら、たまらないでしょう?残念ながらシャンシャンは2020年5月に中国に返還されてしまいます。悲しいです。元気に大人になってほしいです。機会があったら、中国に会いに行きます。
0004名無しさん@恐縮です
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2021/01/02(土) 21:37:45.83ID:EMJR1XhV0
鉄子の部屋の一発ババア。
0006名無しさん@恐縮です
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2021/01/02(土) 21:39:07.08ID:QUouYrof0
2回もライオンに噛まれたのに懲りない人だね
パンダだって噛みつくかもしれないのに(´・ω・`)
0009名無しさん@恐縮です
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2021/01/02(土) 22:17:08.83ID:v2D0o88f0
この人人間に興味ないしコミュニケーションとれないだろ、仕方ないよ
0011名無しさん@恐縮です
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2021/01/02(土) 22:26:51.26ID:p1bC9ONV0
徹子さんテレビ歴史の生き証人
売れっ子女優さんだったのを徹子の部屋をやるためにやめたのよ
舞台は時々続けてるけど
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