0001征夷大将軍 ★
2020/12/31(木) 13:07:07.46ID:CAP_USER9https://number.bunshun.jp/articles/-/846487
うれしすぎる誤算だった。
2013年1月3日、大手町のセンタービル付近にはスリムな上半身裸の男たちがズラリと並んでいた。下は白い短パンに裸足。冬の冷たいビル風に体を震わせる者もいる。30年ぶり10度目となる箱根駅伝の総合優勝を祝し、日体大の伝統ある応援スタイルの掛け声が響き、約60名の部員たちは垂直に跳び、位置につく。
「エッサッサ、よーい!」「オー!」
だが、一糸乱れぬ動きで知られる『エッサッサ』がなかなかうまくそろわない。例年の5、6倍ほど集まった観衆は取り囲むように見守り、和やかな笑い声も漏れてくる。
チームを陰で支えていた当時主務の中村大樹さんは苦笑しながら振り返る。
「一切、練習していなかったんです。急きょエッサッサをすることになったので、少しぐだぐだになりました」
前回大会は19位。日体大史上初めて襷が途切れ、繰り上げスタートの屈辱まで味わった。そのわずか1年後である。日本インカレ総合優勝か箱根駅伝優勝時のみ行われる『エッサッサ』を披露する発想は誰にもなく、慣例である大会前の予行演習もしていなかったのだ。ただ、準備できていなかった理由が、実はもうひとつあった――。
3年生エースの服部翔大にキャプテンを託した
どん底からはい上がるために別府健至監督が荒療治を施し、スタートさせた12年度のシーズン。キャプテンはあえて最終学年から選ばず、3年生エースの服部翔大に託した。一部の4年生からは反発も出たが、指揮官は頑なに考えを曲げなかった。一歩間違えれば、チームがバラバラになりかねなかったが、なんとか同じ方向を向き、一歩一歩進んできた。目的は一緒。箱根で雪辱を果たすこと。
寮生活と練習を引き締めたのは4年生たちだ。最終学年としての矜持を持ち、3年生キャプテンにすべてを押し付けることはなかった。夏合宿でも選抜メンバー以外の居残り組は、最上級生を中心にいい練習を積んでいたという。別府監督はその報告を聞き、強いチームになることを確信した。
「練習で1日も雨がなかった。神がかっていました」
全体の底上げが進んだ夏合宿以降、高柳祐也、谷永雄一ら4年生の主力組もレースで安定して結果を残し始めた。各自の自立心が徐々に芽生え、本来持っている能力を存分に引き出せるようになったのだ。
別府監督の隣でつぶさに練習を観察していた中村主務はチーム全体の成長ぶりを感じながら、不思議に思ったこともある。
「練習で1日も雨がなかったんです。直前まで雨が降っていても、寸前で上がることもありましたから。本当に神がかっていました。これは何かが起こるんじゃないかな、と思ったくらいです」
10月の箱根駅伝予選会では見事にトップ通過。チームとして取り組んできた成果が出たことで、自信を深めた。勢いそのまま11月の全日本大学駅伝では4位に入り、目標の箱根駅伝総合3位が見えてきた。
「3位と13秒差の4位だったんですよね。でもそれがよかったと思います。監督ともそう話していました。ここで3番を取ったら、箱根で優勝を狙うと言い出すだろうな、と。でも4位になったことで、当初の目標通り3位を狙うことに集中して、浮き足立たず、焦ることなく走れると前向きに捉えていました」
服部が5区で大仕事をしてくれると信じていた
4年生の高柳らは伊勢路を終えた時点で、山区間のある箱根では、さらに順位が上がると感じていた。エースでキャプテンの服部が山上りの練習でかなりの手応えを得ていることを知っており、5区で大仕事をしてくれると信じていたのだ。
ただ、服部1人に任せるのではなく、最後までチーム全員で走ることに集中した。前年までは大会1カ月前になると、16人のエントリーメンバーとそれ以外の箱根を走らない控え組は生活から練習時間まで切り離されていた。感染症を予防する上では“箱根態勢”と呼ばれる形は理にかなった措置かもしれない。だが、チームとして一つになれなかったのも事実だった。
「大会前に全員集まって練習することで、みんなで箱根を戦うんだという気持ちになっていました。メンバー外の選手たちも気を抜けなかったですし、あれでより一枚岩になったと思います」(中村主務)
箱根態勢を崩したことで、本来はエッサッサの準備などをしていた控え組も練習に時間を費やし、エッサッサの練習どころではなかった。控え組を含め一人ひとりが本番に向けて目の前のことに集中して取り組んでいたのだ。
(長文の為以下リンク先で)