0001征夷大将軍 ★
2020/12/02(水) 09:50:34.51ID:CAP_USER9そして、そのすぐ横に今泉清。飛ばして横。大型FBがあっという間に守備ラインを突破して、そのままダイナミックに駆け上がっていく。もちろん飛ばされてずらされた明治も足を止めるはずがない。二人襲い掛かった。しかしパワーと加速が上回った。
そのままインゴールへ。トライ。それもラストプレーでノーホイッスルトライ。これで22対24。臙脂のスタンドが狂喜乱舞する中、コンバージョンを狙う守屋がボールをセットした。決めれば同点。
だが、やさしい位置ではない。今泉がトライラインをまたぐ刹那、追走してきた永友洋司が背中から絡みついて死守した難しい角度だった。両フィフティーンの意地と執念の激突。その末に、このぎりぎりの微妙なキックが残されたのだ。
そして――守屋が右足を振り抜き、楕円球がHバーに向かっていく。2本のフラッグが上がる。そのまま長いホイッスル。
ノーサイド。24対24。(略)
伝統の早明戦。そんなラグビー黄金時代の中でも最もスポットライトを浴びたのが早明戦だった。
なんせ両校の学生でもチケットが取れない。当日券売り場には1週間前から徹夜組が出るプラチナカードだった。それがいつの頃からか不明だが、子供の頃の日記をめくり返して見ても、毎年12月の第1日曜はこのゲームのことが書かれているから既に1970年代後半には九州在住の少年を虜にするほどの人気だったことになる(この日は福岡国際マラソンもあって、スポーツ好きの僕にとって忙しい日曜日だった)。
ちなみに両校の対抗戦は1923年まで遡ることができる、まさしく伝統の一戦。日本スポーツ界の“クラシコ”の一つと表しても誇張ではないだろう。
近年頻出する興行的意味合いの強いキャッチフレーズとは一線を画す年輪がそこにはある(今年も12月6日に開催!)。もちろんこの1990年も注目度は高かった。「特に高かった」と言ってもいいかもしれない。両校の主将、早稲田の堀越と明治の吉田の存在感が強かったからだ。ともに高校時代から花園で活躍。大学進学後は1年からスターターに名を連ね、その1年時には、これもいまなお語り継がれる「雪の早明戦」にも出場した(吉田はトライも挙げた)。その知名度は、ラグビーの枠を超えて、国民的と言ってもいいほど高かったのだ。
「あの二人が最上級生となり、早稲田と明治のキャプテンとして激突するからには……」
そんな期待と予感がこのシーズンの早明戦にはあった。そしてやっぱり好勝負になった。それも残り2分から2トライ。ラストプレーで、ノーホイッスルトライで、引き分けて、両校優勝。黄金時代の、そのど真ん中の早明戦で、そんな奇跡のようなゲームが展開されたのだ。だからこの早明戦は伝説になった。
もっともグランドで戦っていた選手たちには「伝説」では片づけられないリアリティがあった。
後年、話を聞いたとき堀越は「あの試合は(途中で)『勝てないな』と思った」と言っていた。
確かに、試合自体は完全に明治のゲームだった。
FWで優位に立ち、バックローが早稲田を粉砕し、永友が堀越を自由にさせなかった。そんな内容通りに2トライ差をつけて、後半の後半まではきっちり勝っていたのだ。
その意味で、最後の最後に起きたドラマは、早稲田にとってはまさにミラクル。奇跡のようなノーサイドだったと言える。しかし、明治にしてみればそうはいかない。
「負けました」
試合後吉田は、引き分けなのに、そう口にした。それだけではない。奇跡は「起こされた」のではなく、「起こさせてしまった」とさえ感じていた。だから、こうも言った。
「僕のせいで負けました」
ラグビーが“誰かのせいで勝ったり負けたりする競技ではない”ことを十分すぎるほど知っているのに、それでも本気でそう思っていたのだ。あの晩吉田は泣きじゃくっていたらしい。
「申し訳なくて、申し訳なくて……。そしたら同期全員が『おまえだけが悪いんじゃない。みんなでもう一度やろう』と……」
そう、まだ終わらなかったのだ。
ヤフースポーツ 12/2(水) 7:30(長文のため一部抜粋)
https://news.yahoo.co.jp/byline/kawabatayasuo/20201202-00209655/