0001砂漠のマスカレード ★
2020/11/28(土) 23:32:37.17ID:CAP_USER9記者会見場を埋め尽くす報道陣のなかには、すすり泣く記者がいる。本来なら誰よりも冷静に現場を取り仕切らなければならない球団広報ですら、涙を流していた。
沈痛な静寂のなか、最初こそ気丈に振る舞っていた主役も、大きな左手で目頭を押さえながら想いを吐いていた。
2011年10月9日。
楽天の山崎武司は、この年限りで自由契約となり、東北を去ることをファンに報告した。
「来年はチームの構想に入っていない」
戦力外を直接言い渡したのは、当時の監督であり、中日時代の山崎の「育ての親」でもある星野仙一だった。
「俺の罪は重い」
43歳を迎えるこの年、楽天の本拠地である宮城県が東日本大震災により被災した。「東北に活力を与えたい」。そう奮闘を約束して臨んだシーズンだった。
固い決意を、形にできなかった。
右手薬指の骨折や終盤の大スランプもあって、打率は2割2分9厘で本塁打は11本。楽天に移籍後ワーストの成績に終わり、優勝を誓ったはずのチームも5位と、不甲斐なさだけが山崎を支配していた。
「俺の罪は重い」
チームの主砲は自分を戒め、大減俸を突き付けられても受け入れるつもりだった。
「寄せ集め集団」の精神的支柱だった
ところが現実は、戦力外という山崎にとって最悪のシナリオだった。
楽天が誕生した2005年から在籍し、07年には43本塁打、108打点で二冠王に輝くなど、山崎は打線の中心に君臨し続けた。
牽引していたのは打撃だけではない。
球団創設当時のチームは、オリックスと合併した近鉄のプロテクトから漏れた、いわば「寄せ集め集団」だった。「何とかしたい」と、若手選手たちの尻を叩き続けた。マスコミにも、いいものはいい、悪いものは悪いとはっきり言い放った。豪放磊落。竹を割ったような性格のベテランは、記者にも慕われた。
精神的支柱。
いつしかそう称され、ファンからも絶大な支持を受けていた男が楽天を去る。
年齢と成績から客観的判断を下せば、自由契約という球団の意向も理解できるが、個人の意思を優先して考えれば100%納得したわけではなかった。それは、山崎だけではなく、戦力外通告を受けた者すべての共通認識だろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2984c392bc4127a29dbbb2d9e1d5ab291d8e166e?page=1
11/28(土) 17:05配信
https://npb.jp/bis/players/01303868.html
成績
https://www.youtube.com/watch?v=dLHenLbUFq0
20131005 中日ドラゴンズ 山崎武司 応援歌 8回裏