0001朝一から閉店までφ ★
2020/11/27(金) 23:09:49.02ID:CAP_USER9若くして“天才落語家”として地歩を固め、近年は朝の情報番組の司会として誰もが知る顔となった落語家、立川(たてかわ)志らく(57)。テレビで初めて知った人からは「落語、できるの?」。異端ともされる立川流で芸を磨いてきた志らくは、この年末の独演会で古典の名作「芝浜」などを披露し、落語初心者にもその面白さを伝えるつもりだ。「きちんと作品を語ろうと強く意識している」。表情を引き締めて語った。(兼松康)
「毎年、自分の落語の納めはそこと決めている」
年末の独演会は今年で10回目。師匠の立川談志(だんし)が恒例としていた年末の独演会を引き継ぐ形で、談志が死去した平成23年に始めた。
これを十八番とし、世に広めたとされる三代目桂三木助(かつら・みきすけ)(1902〜1961年)の「芝浜」を受け継ぎつつ、談志は情景描写を極力抑え、落ちている財布に注目する魚屋などを強調。けなげに描かれていた女房を、夫を叱咤(しった)激励する「強い女」として描き、人物描写を詳細にすることで夫婦愛の噺(はなし)へと昇華させた。泣かせる人情噺として、単なる「芝浜」ではなく「“談志の”芝浜」と呼ばれるまでに自らのものとした。
「談志は暮れに芝浜をやることが多かったから、23年は“談志追悼の会”みたいになって。談志信者も来るだろうとプレッシャーにもなった。幕が開くと異様な空気感で、中には泣いているような人もいた」。最初の年末独演会をこう振り返る。
志らくが修業した落語立川流は異端の存在だ。
毒舌家で、強烈なキャラクターの持ち主だった談志が昭和58年、門下の真打ち試験の結果などに反発して落語協会を脱退。自らが家元となって創設した。
年功序列が反映されがちな協会と一線を画して弟子の昇進に厳しい審査を課し、「落語界の東大」を自称して実力主義を徹底したのだ。このような一門は他に見当たらなかった。
テレビに出てくる談志は、ヘアバンドと色付きメガネがトレードマーク。古典落語をかけることがほとんどだったが、その古典の中に談志の見方や感想が入ることがしばしばあることから、「客は『噺』ではなく『談志』を聴きにくる」とよく言われた。
門下からは志らくのほか、志の輔、談春ら実力派を多く輩出。稽古の様子や抱腹絶倒の日常がつづられた談春の著書「赤めだか」はベストセラーとなった。
■まさかの「落語できるの?」
志らくは、平成28年にテレビでコメンテーターを務め始める。昨年9月末にはTBSの朝の情報番組「グッとラック!」のメイン司会に就任。その名と姿は全国区になったが、その分、自身の「落語のイメージがどんどん薄れている」と苦笑する。「『あいつ、落語できるの?』などと、まさか言われるようになるとは思わなかった」。だが、この状況は「以前よりもっと、落語に触れたことのない人が来る可能性がある」ということだ。
そこで古典の「芝浜」をかけることに「意味がある」と捉えている。面白さを知ってもらうのだ。志らくにとって「芝浜」は「遊べる落語」でもある。「結局は夫婦2人だけの会話。アドリブもやりやすい。毎年アドリブでやれば、自分自身の変化や進化も分かる」と語る。
■「自分見直すいい時機」
12月の独演会は、オンラインでも配信する。何度か配信を経験する中で気付いたのが「ノリの落語をやめよう」ということだ。
生前の談志に「下手に落語をやっているけど、どこかで意識しないと、うまい落語はできなくなる」と教わったことがある。「ノリでやる落語はその場でウケても、後で音を聞くとイヤにもなる。音楽でいうと、音程が外れている感じ」
今年は落語の世界も厳しい環境となった。だが、「落語家の人生としては、自分を見直すいい時機なのかも」と話す。そこにきて「芝浜」だ。「笑いの量で勝負しなくていい噺。客もじっくりと聞こうとしている」。息苦しかった年ならではの「芝浜」に触れることができそうだ。
〈芝浜〉 古典落語の人情噺。腕はいいのに酒におぼれた魚屋が大金の入った財布を拾い、飲み仲間を呼んでどんちゃん騒ぎ。ところが翌朝、その財布はなくなっていた。魚屋は「夢だったか」と諦めて禁酒し、仕事に打ち込み、3年後には店を構えるまでに。すると女房が、消えたはずの財布を差し出してきた…。噺の締めに魚屋がつぶやく言葉はことに有名だ。
https://www.sankei.com/smp/entertainments/news/201126/ent2011260012-s1.html