ザ・クラッシュの3rdアルバム『ロンドン・コーリング』が1979年12月にリリースされてから、40年の月日が流れた。

1989年にローリング・ストーン誌が「The 100 Greatest Album Of The 80s」の第1位に選出、”傑作”という評価を
揺るぎないものにしてきた感がある『ロンドン・コーリング』だが、

リリースされた当時のチャート・アクションは全英9位、全米27位と、実は大ヒットとは言い難いセールスに終わっている。

ことイギリス国内での反応は複雑で、それまで社会的なテーマを扱うパンク・ロック・バンドとして時代の先端を邁進
してきたクラッシュが、本作でルーツ・ミュージックへの回帰を示したことに、戸惑いの声が上がった。

「アメリカナイズドされ過ぎ」という具体的な批判も浴びている。彼らの試みは79年当時のイギリスでは、軟化、
あるいは退行と捉えられ、すんなりと受け入れられなかったのだ。


来日公演も体験した高木氏の発言で目から鱗が落ちる思いがしたのは、
「ブリストルのポップ・グループやリップ・リグ&パニック……さらにマッシヴ・アタックなどのトリップ・ホップにまでつながるよね。
おそらくクラッシュがいなかったら、無かったと思う」という指摘。

クラッシュが我流で形成した折衷的なサウンドが、新しいクラブ・ミュージックの起点となったことは、確かに歴史が証明している。
その長い旅の始まりこそ、『ロンドン・コーリング』であった。

個人的な経験を振り返ってみても、クラッシュについての会話はヒップホップ勢やレゲエ勢と交わす機会が多かった。
日本のクラブ・ミュージック黎明期を知る世代は、始点がいきなりクラブ・ミュージックにあるわけではなく、それ以前に
パンク/ニュー・ウェイヴを経由してきた人が大半だから。

ヒップホップ以前にロックンロール、パンクを通過してきた故・MAKI THE MAGICは、「ジョー・ストラマーの発言は矛盾が多かった」
と指摘しながら、「その矛盾してしまうところがいいんだよ。人は矛盾した生き物だから」と力説していた。
同じくパンク少年だった時期があるKICK THE CAN CREWのLITTLEは、「クラッシュも好き」と前置きした上で、
「人として強度の高いジョー・ストラマーが強い音楽をやっているクラッシュより、へなちょこなジョニー・ロットンが精一杯突っ張って
いるセックス・ピストルズの方にパンクを感じた」と、彼なりの視点で鋭いことを言っていた。

本書用の取材で、映画『RUDE BOY』にも出てくる元ロード・マネージャー、ジョニー・グリーンにインタビューして印象深かったのは、
79年当時の人間関係に関するこんな発言だ。

「僕ら自身は、皆対等で同じ位置にいると思っていたよ。外から見るとクラッシュはジョーのバンドで、ジョーが中心人物だと思われていたし、
今もそう思われているだろう」。

あらゆる局面でバンド代表として矢面に立たされるようになり、ジョーのストレスは増すばかりだった。
それでもジョー・ストラマーという”役割”を引き受け、ファンを楽屋や打ち上げ会場にまで入れてしまうなどの直接的な触れ合い
を続けたのが、ジョーという人であった。

初代マネージャー、バーニー・ローズと決裂してメンバー自身がマネージメントを牛耳っていたこの頃、バンドは順風満帆とは言えない状況
に直面していた。

「(アメリカ・ツアーから戻ってくると)ロンドンでは少し忘れられた感さえあった。レコード会社は金銭的なサポートをしてくれないし、
バーニーとの争いで銀行口座は凍結されていた。NYやLAを大型バスで移動していたのに、帰ってきたらロンドンの地下鉄に乗って
リハーサルに行くなんてさ。ギャップが凄いよね」。

バーニーと揉めたせいでリハーサル場所すら失い、思うように活動できずにいたバンドが、ここで一念発起。
制作の初期段階から「皆の膨大なアイディアは沸騰状態だった」と、ジョニーは証言してくれた。
今では問答無用の名盤である『ロンドン・コーリング』が、実は逆境からひねり出された作品であったことは、もっと語られてもいいだろう。