今年2020年は、“はっぴいえんど”結成50周年にあたる。“はっぴいえんど”と聞いてもピンとこない向きもあるだろうが、ロックやポップスに関心の深い40代から60代の読者であれば、「細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂の4人が1970年に結成したロック・バンド。『はっぴいえんど』(通称『ゆでめん』70年)、『風街ろまん』(71年)などの伝説的なアルバムを残して73年に解散した」といった型どおりの解説は必要ないだろう。

「日本語ロックを確立したバンド」というのがはっぴいえんどへの一般的な評価である。日本語ロックとは何かという点には議論もあるが、70年代以降の日本のロックやポップスの展開に多大なる影響を与えたバンドであることは疑いない。それは、解散後のメンバーの足跡をたどるだけで十分にわかる。

 ベース担当の細野晴臣(47年東京都港区生まれ)は、73年に鈴木茂、松任谷正隆、林立夫とともにキャラメル・ママ(後にティン・パン・アレーと改称)を結成、荒井(のち松任谷)由実などの活動を積極的にサポートし、ユーミンを頂点とするいわゆる「ニューミュージック時代」のサウンドに先鞭を付けた。キャラメル・ママの創りだしたサウンドは、現在「シティ・ポップ」と呼ばれ、国内外で高く評価されている。

 78年に細野は、坂本龍一、高橋幸宏を誘ってYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成、テクノ・ポップ(エレクトロ・ポップ)という世界的潮流の一翼を担った。細野の活動は、その後も注目され、小沢健二や星野源をはじめ多数のアーティストに大きな影響を与えている。

 ボーカリストだった大瀧詠一(48年岩手県江刺郡生まれ)は、ソロ活動や作曲・編曲家としての活動と並行して、日本初と思われる個人レーベル、ナイアガラ・レコードを起ち上げ、英米の1950年代から60年代にかけてのポップスの流れを詳しく分析した上で、ナイアガラ・サウンドと呼ばれる独自のサウンドを確立し、ミリオンセラーになった81年のアルバム「ア・ロング・バケイション」で一世を風靡した。

 細野と並んで、大瀧の後輩アーティストに対する影響力は強く、山下達郎(シュガー・ベイブ)、鈴木雅之(ラッツ&スター)、佐野元春など大瀧を師と仰ぐ人気アーティストは数多い。大瀧は内外のポップス史に精通しているだけでなく、日本の映画や芸能についても博覧強記で、いわゆる「業界」ではつねに一目置かれるご意見番だった(2013年12月30日没)。

■売れないロック・バンド

 ドラムスと大半の歌詞を担当した松本隆(49年東京都港区生まれ)は、はっぴいえんど時代に、当時は珍しかった「です・ます」調の歌詞を武器にロックやポップスの世界に斬りこみ、人気沸騰中の吉田拓郎や井上陽水などの作風に少なからぬ影響を与えた後、アグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密」(74年)を皮切りにミュージシャンから職業作詞家に転身した。70年代後半には作曲家・筒美京平とのコンビで太田裕美「木綿のハンカチーフ」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」などの大ヒット曲を手がけた。

 80年代に入ると松本は、近藤真彦「スニーカーぶる〜す」、寺尾聰「ルビーの指環」、イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」といった150万枚を超える大ヒットを連発して人気作詞家としての地位を不動のものとする。81年から84年にかけては、細野、大瀧、鈴木、それに松任谷由実などを巻き込んで、トップアイドル・松田聖子の黄金時代を事実上プロデュースしている。現在も大御所的存在として幅広く活躍する。

 ギタリストの鈴木茂(51年東京都世田谷区生まれ)は、キャラメル・ママ時代に始めたソロ活動を継続する一方、セッション・ギタリスト、作曲家、編曲家としてさまざまなアーティストのサポートやプロデュースを務めている。ソロ・ライブでは、以前からはっぴいえんど時代の自作曲をレパートリーとしてきたが、最近は、はっぴいえんど時代の大瀧の楽曲を、大瀧を彷彿させる歌唱スタイルで披露してオールド・ファンの心を掴んでいる。

(以下略、続きはソースでご確認下さい)

エンタメ 週刊新潮 2020年9月24日号掲載
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