【エール】タモリの無名時代と早稲田「紺碧の空」の意外な接点 [征夷大将軍★]
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(略)
■応援団長・高山三夫の熱い思い
応援歌の歌詞公募での選者のひとり、作詞家で早大仏文科教授だった西条八十は、住治男の書いた「紺碧の空」を「ほとんど訂正するところがない素晴らしい歌詞だ」と高く評価しつつも、「覇者、覇者、早稲田」の箇所は曲をつけるのが難しいだろうから、相当の謝礼金を積んで、山田耕筰や中山晋平といった大家に依頼すべきだと提言したという。
だが、西条のこの言葉に応援部の面々はカチンときたらしい。高山三夫という学生はカッとなって「早稲田に生きる者が金銭的に図るとは何事ですか」と一喝したという(『鐘よ鳴り響け』)。
この高山について、古関の自伝などでは応援団の「副団長」と書かれているが、『行動・熱血の63年 高山三夫のプロフィール』(私家版)所収の年譜によれば、1931年当時、早大商学部の3年生だった彼は応援団長に就任していた。高山は1908年生まれで、古関よりも1つ上ということになる。
『エール』に登場する応援団長の田中は訛りから察するに九州出身のようだが、高山も福岡出身で、隣県の大分・日田中学(現・日田高校)を卒業後、上京すると第二早稲田高等学院を経て早大に入学している。
■高山とタモリの意外な関係
現実の高山は1932年に大学を卒業すると、帰郷して福岡日日新聞社(戦時中に九州日報社と合併して西日本新聞社となる)に入社し、戦後は全九州一周各県対抗自転車競走大会や西日本巡回移動大動物園など大規模な事業に多数かかわった。1964年に定年退職後は西日本新聞社の嘱託となり、特派員としてたびたび世界各地を回ってもいる。高山は新聞社勤務のかたわら、他人への世話も惜しまなかった。毎朝出勤前には地元の人たちの“陳情”に応じていたほか、元横綱の双葉山、作曲家の中村八大や歌手の村田英雄といった九州にゆかりのある人々を支援するなど、まさしく地元の名士ともいうべき存在だった。
そんな彼と深いかかわりを持った人物のなかには、無名時代のタモリがいる。その出会いはつまびらかではないが、高山が早大校友会福岡支部の幹事長などを務めていたことから察するに、おそらくはその関係で知り合ったのではないだろうか。
タモリは一浪して1965年に早大に入学するも、モダンジャズ研究会の活動に熱中するあまり除籍となる。しばらくして郷里の福岡に戻ると、1970年に朝日生命に入社。翌1971年秋には、26歳にして会社の同僚だった2歳上の女性と結婚、このとき媒酌人を務めたのが高山だった。だが、同年11月に高山は62歳で亡くなっている。
■タモリの力を見抜いた高山の慧眼
翌1972年、タモリは、高山が中学時代をすごした日田市のボウリング場に転職した。このボウリング場はもともと日田観光開発という会社が経営していたもので、同社が雅叙園観光という当時全国展開していた総合レジャー・エンターテインメント企業に吸収合併されるにあたり、リニューアルされることになった。
このとき雅叙園観光社長の松尾國三に、高山は以前より何かにつけて世話をしていた縁から、ボウリング場の経営を任せられる人物はいないかと相談され、推薦したのがタモリだったという。
拙著『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)にも書いたように、ボウリング場でタモリは支配人にまで出世し、12人の従業員の先頭に立って八面六臂の働きを見せ、収益もしっかりあげていたという。
そして1年半ほどして再び福岡に呼び戻され、高山の長男・博光(現・福岡市議会議員)の開業したフルーツパーラーのバーテンダーに転身した。
このころにはタモリは、山下洋輔たちジャズミュージシャンが福岡を公演に訪れるたび、一緒に遊ぶ仲となっており、しきりに上京を勧められていた。彼がついに決意して東京に旅立ったのは、バーテンダーになった翌年、1975年のことである。
■タモリも書いた早大応援歌
なお、早大では戦後も応援歌が、永六輔や青島幸男といった名だたるOBの作詞によりいくつもつくられてきた。
タモリも芸能界にデビュー後、1980年に依頼を受けて「ザ・チャンス」という28番目の応援歌を書いた(作曲は早大ハイ・ソサエティ・オーケストラ1期生の岸田哲)。
彼はこのとき、《『紺碧の空』ができた時の応援団長だった高山三夫さんは、個人的に大変お世話になった方なので、私に依頼がきた時には、なにか不思議な因縁の様なものを感じた次第です》という言葉を残している(『サンデー毎日』1980年11月16日号)。
いまにして思えば、大学をやめて、いわば都落ちしてきた森田一義という青年に見どころを感じ、大きな仕事を任せた高山三夫は慧眼というしかない。
文字数制限のために該当部のみ。全文はリンク先で。現代新書、ヘッドライントゥディ 2020.8.10
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74753 海外Youtuberで曲を聞いて感想を言うだけのお手軽チャンネルやってるのがいる
それがベビーメタルを聞くってやつがあるんだが
たぶんカップルで彼氏が、露出多めの彼女に教えてあげるって関係みたい
それがなぜか1時間以上ある
うち55分はしゃべり
本人も長いと思ったのか目次がついてるんだが
10:37 第2次大戦後の日本、15:23 東京オリンピックと新幹線、16:30ビートルズとグループサウンズ
・・・って何これ
こうして戦後日本の歴史とBABYMETALのストーリーをたっぷり聞かされてから動画を見たからか、お姉さんは途中から涙、涙
https://youtu.be/sIaZdreyYuI?t=3672
コメントも500件以上、内容も熱い長文が多い
>StarryStarryNocturne
ベビーメタルの物語はセックスピストルズよりすごい
>David Lara
私は53歳のメタル好きだ。BABYMETALを初めて聞きて今までの経緯をを知りたくなった。
さくら学院の動画もすべて見てBABYMETALがどうやってできたかを知った。
彼女たちは本当に魅力的なパフォーマーで、私もいくつかの曲で泣いた。
>RHD
私は54歳のメタルミュージシャン。80年代にマイアミのバンドで演奏していた。
2016年にギミチョコを聞いて驚いて友人に勧めたりしたが、それ以上深追いはせずに忘れていた。
それがギタリスト事故死のニュースを知り、改めてYoutubeで見直して驚き何度も見返した。
時には泣き、さらにすすり泣いた。それは完璧で純粋な喜びだった
今は大好きなバンドでもちろんコンサートにも行った >>5
間違い
テレビファソラシド
タモリ倶楽部
今夜は最高
で終わった >>2
怖すぎる眼帯
からのテレビ向けのための柔和化
https://img16.shop-pro.jp/PA01096/366/product/101728758.jpg
↓
http://www.moegame.com/movie/images/kishida02-20110807-230320.jpg
↓
cdn.asagei.com/asagei/uploads/2013/11/20131128d.jpg
↓
kurumefan.com/wp-content/uploads/2018/09/180927-0001.jpg タモリが常識ある人なのは、社会人生活をちゃんと送ってたからなんだね NHKの朝ドラがずっと続いていけば、
タモリもいずれ朝ドラのネタになりそうな
面白い人生だな。 >>13
ちゃんと社会人してたら赤塚なんかに拾われないだろ >>17
いやいや、二部にこそ早稲田の魂があったんだよ タモリは「柔気流」という極めて実戦的な格闘技を学んでるんだよな 今や早稲田って馬鹿が行く大学ってイメージしかないが 一浪して夜間だろタモリ
当時の二文は偏差値55くらいだぞ 当時の早稲田入学者にはタモさんみたいな人がいっぱいいてタモさんは投資されてたうちの一人だったというのが真実だろ
今の早稲田はねえ 地元選出の国会議員
二文卒なのに「早稲田文学部卒」を名乗ってる
当時は存在しない学部だし、ざっくり言うなら旧・二文は今の文化構想学部
もちろん、一文→文学部、二文→文構と単純に移行したわけでないことは知ってる タモリは貧乏な家庭で育って、幼くして働いていたときに眼病を患ったけど医者にもかかることができずに片目を失った。
それでもくじけることなく明るさを失わず生きて、人々を笑いを届け皆が幸せになってほしいとの一心でお笑いの世界に入った。
なんて話を信じて応援していたのに後年みんな嘘だと知って悲しかった。 当時はとりあえず早稲田界隈、神田界隈で学生だった奴が田舎に戻ってきたら投資する価値はある 一浪して早稲田第二文学部。現役高知大落ちで一浪して福岡教育大。当時の基準から言うとどちらが優秀なんだろう? >>28
貧乏どころか裕福な家庭だったんだけど。
わりとお坊ちゃまだよ そろそろ東京引き払って中洲産業大学地理学科教授に着任していただきたい 頭の良さは学歴じゃないって
何となく感じさせてくれた人… 早稲田中退を強調してるけど、しょせん高卒ですから
バカ田マスゴミが持ち上げすぎだよね、この人 意外な接点って表現で、ほんのちょっとだったり間接的だったりの関わりかなと思って読んだら
がっつり関わっててワロタ
バーテンダーもやってたとは知らなかった >>2
福岡で山下洋輔と出会い再上京に至る流れは何度見ても面白い > タモリが常識ある人なのは、社会人生活をちゃんと送ってたからなんだね
博多で有名な喫茶店のマスターやってた時に
ウインナーコーヒーに本当にコーヒーにウインナー入れて出した
当時のちに有名なフォークシンガー(無名時代)達が集まってたが
武田鉄矢も驚いた 芸能界入りしてなければ、「月曜から夜更かし」に時々出てくる奇人素人とかになっていたんだろうか 笑っていいともが終わって、本当に若い世代で、タモリ知らない人出てくるよね ブラタモリで博識披露して同行の専門家驚かせてるのって台本でしょ デビュー当時から早稲田中退のインテリアってふれ込みだったよな
当時の二部なんて無試験も同然だろ 年末の徹子の部屋に、リモートでいいから復活して欲しい 今のタモリ倶楽部つまらない
あんな毒にも薬にもならない内容ならわざわざ深夜でやる必要ない気がする しゃしゃ 社学の社
夜は寝床でグーグーグー
楽しいな 楽しいな
社学はレポートも 授業も何にもない
しゃしゃ 社学の社 みんなで歌おう 社学の社
は野坂昭如だったっけ? 文文文 文学部
可愛い女に 男が群がる
文文文 文学部
文文文 文学部
可愛い男に男が群がる
文文文 文学部
文文文 文学部
男の周りに 男が群がる
文文文 文学部 >>52
ではどういう内容なら面白いと感じるのか。 タモさんは電通大目指してたけど学力足りなくて泣く泣く早稲田大
カズレーザーは埼玉大目指してたけど数学が出来ず諦めて同志社大 >>49
古くて情報が少ないけど、1960年代後半の古い受験雑誌の難易度ランクだと
立教大社会学部とか立命館大文学部とかと同じだからさすがにそれはないかと・・・
社学はその下だし。
20年前だったら社学も二文も代ゼミや河合で偏差値60台だから難しいのは間違いないけど。 >>12
それ一人タモリじゃないのが混じってるという噂が 社学や教育の偏差値高いのは経済系を嫌がる女子学生が入るからだろ
女子学生に人気の学部は就職先があてにならない この本読んだわ。学生時代から人に好かれ人に恵まれる人生だな 人脈が凄いわ >>56
俺もそう思う
早稲田の夜間が一番早稲田っぽい
演劇とか タモリがかけだしのころに住んでいたマンションは、に古関裕而の家のすぐそばだった 昭和50年頃に高信太郎のオールナイトニッポンに出演したのが最初期かな。
ジャックと豆の木という店にタモリがいたので、そこに電話してネタをさせたりしてたな。
高のオールナイトが終了したら早速林美雄のパックインミュージックに高と一緒に
出演したりしてた >>66
山下洋輔じゃないの?
博多に来た時一緒に遊んでたし、初期タモリのようなブラックなネタも
しばしば披露してたようだw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています