6月20日、駿河台大駅伝部のメンバーは10000mのタイムトライアルに臨んだ。第1集団を徳本一善監督が自ら引っ張り、最初の1000mは2分56秒。最初こそ今井は第2集団にいたが、5000m過ぎには第1集団へ。そこから集団を抜け出し、他の選手に引いてもらいながらペースを刻んだ。この日は練習を再開してからまだ3週間程度という状況ではあったが、今井を含む数人が29分台を記録。今井が苦しさで顔をゆがめながら走る姿を、選手たちは親しみを込めて「魂の走り」と呼んでいる。「今井さん、今日も魂出ていましたね!」と声をかけられれば笑顔を返す。選手としてはもちろん、先生としても、負けられない。
中学、高校時代は陸上をしていた。しかし2008年、高3の夏にあった北京オリンピックで、井出樹里が日本人トライアスロン選手として初めて5位入賞を果たした姿を見て決意。日本体育大学ではトライアスロン部に入った。3、4年生の時には関東学生トライアスロン選手権で準優勝を果たし、日本学生選抜にも2度出場。さらに日本トライアスロン選手権でも上位になれる力をつけたいと考え、日体大卒業後は飯島健二郎監督が率いるチームケンズに進んだ。
井出樹里や佐藤優香など国内トップ選手とともに練習を重ねての1年目に、関東トライアスロン選手権と日本デュアスロン選手権 U23で優勝し、ITU世界デュアスロン選手権 U23では8位を果たす。しかし目標としていた日本トライアスロン選手権では23位に沈み、壁にぶち当たった。「追い込んで厳しい練習を重ねたのに23位。どう頑張ってもトップ10に入る姿が見えなかったんです」。その後もトレーニングを継続したが、飯島監督に「トライアスロンでは食べていけないから、他の道を考えた方がいい」と声をかけられた。厳しい言葉ではあったが、プロの厳しさを知っている飯島監督だからこその重みがあった。
日体大で保健体育の教員免許をとっていたこともあり、2015年からは臨時採用で教師としてのキャリアを始め、トライアスロンは翌16年の日本トライアスロン選手権を最後に引退。同年には埼玉県の教員採用試験に合格し、17年より飯能市内の中学校で働き始めた。
保健体育の先生として子どもたちと向き合い、部活動では陸上部の顧問を務めた。自分が教わってきたことを教育の現場に生かしていたが、不登校の生徒に対して思うように導けず、悩んだ。「僕はある種の根性論で鍛えられてきたけど、今の子どもたち、さらに次の子どもたちにはもっと寄り添った指導が求められています。だから教育相談やカウンセリングなどを学ぼうとしたら、今が最後のチャンスじゃないかって思ったんです」。そして同じ飯能市にある駿河台大で心理学を学ぼうと決意した。
自己啓発等休業は赴任先の学校に籍を置いたまま、大学等における修学もしくは国際貢献活動ができるという制度。今井は前者にあたるが、大学院ではなくあえて大学を選んだのは箱根駅伝を走りたいという思いがあったからだ。
駿河台大駅伝部の徳本一善監督には偶然、14年にあったトライアスロン試合会場で出会い、「走る練習がしたいんだったら、うちのグラウンドに来てもいいよ」と言ってもらえていた。翌15年には飯能市内での勤務が始まり、市内に引っ越してからは週末、学生たちのそばでときには徳本監督にも指導してもらいながら今井もグラウンドを走っていた。トライアスロンを引退してからは市民ランナーとして走り、18年の大田原マラソンでは2時間28分32秒で優勝。派遣されてパリマラソンも経験し、翌年の大田原マラソンでは2時間23分23秒と記録を更新している。
今井は日体大進学を機に陸上から離れたものの、高校時代に不完全燃焼で陸上を終えてしまったという思いがずっと胸にあった。4年生だった13年に、日体大は30年ぶりとなる箱根駅伝優勝を果たしている。月日が流れ、もしかしたらその大舞台に手が届くかもしれない。だったら挑戦したい。これが限界、という気持ちをもう一度味わいたい。そんな思いで、徳本監督とともに箱根駅伝を目指す決意を固めた。
1年生とは11歳も年が離れている。さらに今井は学生ではあるものの、元々は中学校の先生だ。学生たちは全員、今井に対して敬語を使っている。その一方で今井は「僕は3年生で、4年生は先輩だから」と、4年生に対して敬語で接している。
自分がもう一度限界に挑戦することは次の選手育成にもきっとつながる、という思いもある。
(以下はリンク先で)
2020.8.4 大学スポーツ4years
https://4years.asahi.com/article/13531284