天才は異端であり天邪鬼だ
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天才を育むには、それを見極める眼と環境が要る。バルセロナはリオネル・メッシを、レッドスターはドラガン・ストイコビッチ(愛称はピクシー)を発掘すると、指導スタッフは周知徹底したそうである。

「あいつはいじるな」

 概して天才はバランスが悪い。他競技に目を向ければ、ひとりで計23個の金メダルを獲得したマイケル・フェルプス(水泳)や短距離と走り幅跳びを両立させたカール・ルイス(陸上)などの例があるが、サッカー界で攻守万能な天才は見かけない。

 かつてイビチャ・オシムは言った。

「ロナウジーニョも守備をさせてしまえば、ロナウジーニョではなくなる」

 メッシもロナウジーニョも批判の矛先は「あまり走らない」ことだった。また札幌を指揮するペトロヴィッチ監督も、ある試合後の会見で「小野伸二が全力疾走をするのを久しぶりに見た」とジョークに少し毒を塗した。だが裏返せば、彼らはこれほど運動量が求められる時代に、明らかな減点を相殺してもあり余る価値を創出してきた。そもそも斯界に、素走りが大好きな天才はいない。異次元の緩急で何度も相手を置き去りにしてきたヨハン・クライフも例外ではない。

「人が走るよりボールを走らせればいい」

 やはり球技の天才は、ボールを愛し、ボールに触れることで違いを生み出す。もちろんペレのように「ひとりスルー」でGKを欺くこともあるが、それもボールに触れれば無敵なキングの威圧感が大前提になる。

 さてこれだけ記しただけでも、いかに日本では天才が育ち難いかがわかる。天才は異端であり天邪鬼だ。敢えてコーチの指示とは別の選択をして、それ以上の解決策を見つけ出してしまう。ピクシーは、そこで度量の広い指導者に誉められ続けたから才能が開花した。だが残念ながら日本では、少年時代からチームの勝利が優先され、個々の探求心がへし折られて来た。幼少期からチームへの献身が過度に強調されれば、良い労働者は生まれてもプロで輝く武器は磨けない。

天才はイメージだけで進化した
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コーチの指示以上の解決策を見つけ出す。ストイコビッチの閃きは、Jリーグでは異質に映った。(C)Jリーグフォト

 若い世代には伝わり難いが、日本サッカー史上別格の天才は釜本邦茂である。野球一辺倒だった時代に、こんなスーパーアスリートがサッカーを選んだのは奇跡だった。今なら大谷翔平が迷い込んで来るような僥倖に近い。実際釜本は、引退後にセ・リーグで首位打者3度の江藤慎一の野球教室に参加し、現役高校生投手からホームランを叩き込み驚かせたという。江藤は感嘆した。

「やっぱり釜本さん、野球をやっていたら王さん、長嶋さんクラスでしたよ」

 当時180センチ超えは「クマ」に例えられるサイズなのに、柔軟な筋肉、俊敏性、爆発力のすべてを備えていた。元同僚DFの弁だ。

「普通の人は何千本、何万本と蹴って少しだけ上達するのに、釜本は10〜15本で出来てしまう。早稲田大学時代は、1年生なのに走る時はいつもビリの方をトボトボ。それでもリーグ開幕戦から4ゴールだから、練習で手を抜いても仕方がないか、と誰も文句を言わなかった」

 かつてバルセロナ時代のボビー・ロブソン監督は「戦術はロナウド」と言い放ったが、まさに当時日本代表の戦術は釜本を軸にしていた。前述の同僚コメントを立証することになるのが、メキシコ五輪を迎える1968年初頭のドイツ留学である。タイミングが悪くチームはウインターブレイク中でオフ。仕方がないので映写機を持ち出し昔の名場面を繰り返し見ていたのだが、この2か月間で「見違えた」と誰もが口を揃える。天才はイメージだけで進化した。そのまま五輪本番では得点王を獲得し、チームを銅メダルに導いたのは周知の通りだ。ボールを蹴り始めてわずか10年あまりでの快挙だった。

 アマチュア時代の日本代表選手たちは、欧州クラブへの練習参加を繰り返していたので、釜本とトップレベルの比較は出来た。

「当時世界最高のストライカーはゲルト・ミュラー。そのミュラーと得点王争いをしていたユップ・ハインケスと比べても見劣りしなかった」(日本代表の同僚だった落合弘)

つづく

6/29(月) 6:03 サッカーダイジェスト
https://news.yahoo.co.jp/articles/b54d8588e7b83755b5ef3b8766230f336c1b02a1