【野球】藤田平氏、納得できなかった…まさかの“解任通告” 約9時間半に及んだ“籠城会談” [砂漠のマスカレード★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
阪神の暗黒時代、球団や選手に対する厳格な姿勢から「鬼平」と呼ばれた将がいた−。虎生え抜き選手初の名球会打者でもある元監督の藤田平氏(72)=デイリースポーツ評論家=が、1995年に就任した2軍監督時代から1軍監督を途中退任した翌96年までを述懐する。「最悪」と衝撃を受けた現場復帰当初のチーム状態から、新庄正座事件、桧山の4番抜てき、そして深夜にまで及んだ“籠城会談”など激動の虎を振り返る。(文中は敬称略、役職は当時)
◇ ◇
席を外されたのは3度だったと記憶している。約9時間半に及んだ“籠城会談”は、1996年9月12日。遠征先の横浜への移動前だった。
藤田は三好一彦球団社長から連絡を受け球団事務所へ赴く。そこで突きつけられたのは“解任通告”。久万俊二郎オーナーから翌年への期待の言葉も受けていただけに受け入れられない。午後5時から始まった話し合いは日をまたぎ、深夜2時半まで続いた。
「三好さんから『(監督を)退いてくれ』と。途中、三好さんは3回席を外した。(会談での)やり取りを電話で(久万オーナーに)話したりしてたんだと思う。こちらとしては『(回りくどいから)3人で話しましょう』と言ったけど、オーナーも出にくかったんやろうな。こちらは、ある人を通じて『来年も』と聞いていたし」
第三者を通じてだが“続投”と聞いていた。「久万オーナーと月に1回は会っていた。手塚さんと3人で」。当時、電鉄本社社長で後に久万の後を受け球団オーナーに就く手塚昌利を交えての会談。球団側とは翌シーズンに向けた意見も交わしていた。
「おれ、辞める会見してないんや」。どうしても納得できなかった。だから応じなかった。三好と会談した12日には報道陣が集められ「藤田退任」の発表会見が行われる予定だった。だが三好との会談で決着が付かず、改めて翌13日に会見が開かれる。
その際、藤田は三好から会見同席を求められたが「こちらは何の記者会見も分からなかったし帰った。納得してなかったし」。この日から藤田は休養に入る。
我慢が続いた96年。補強といえば金銭トレードで加入した平塚克洋くらいだった。前年から在籍したグレンとクールボーの両外国人選手は6月に退団。それに伴い野手でクレイグとマースを獲得したものの、結果は出なかった。
チームの不振に不満を持つファンと、移動の新幹線で対話したこともある。「『話がある』、というので『それでは話をしましょう』と」。立て直しに懸命だった。
「中村吉右衛門のが好きなんや」。時代劇専門チャンネルで再放送されていた「鬼平犯科帳」を、たまたま目にしたのは2019年6月。確かその時は、高山俊や近本光司への期待の言葉を口にしながらの視聴だった。チームを論じる際は熱を帯びる。ただ、若手選手の話題には、語りかけるような口調になることがある。
5/30(土) 9:00 Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200530-00000028-dal-base 「たくさんのお客さんが来てくれる幸せな球団だけど、
それに甘えてはいけない。
プロ野球選手は、自分の体ではあるけれど、同時に自分だけの体ではない。
お客さんがいて食事、生活ができているんだから」
劇中の長谷川平蔵は穏やかな人柄ながら仕事に対して厳格な人物像だ。
厳しく聞こえる選手や球団への物言いは、タイガースの繁栄を願ってのこと。
その思いは今も変わらない。(敬称略)=おわり=
◆藤田 平(ふじた・たいら)1947年10月19日生まれ、72歳。
和歌山県出身。
現役時代は右投げ左打ちの内野手。市立和歌山商(現市立和歌山)から65年度ドラフト2位で阪神入団。
通算2064安打は阪神歴代2位。首位打者・最多安打各1回、ベストナイン7回、ゴールデングラブ賞3回。通算成績は2010試合207本塁打802打点、打率・286。
84年現役引退後、95年に阪神2軍監督から1軍監督代行。96年に監督就任したが、シーズン途中で退任。
監督通算成績は170試合65勝105敗、勝率・382。
現デイリースポーツ評論家。 新庄の才能を見抜けず個性を全否定して何時間も正座させたりしたんだろ 解任通告に抵抗しても意味が無いし
抵抗する奴なんて前代未聞
藤田平が本格的にアホだと知れ渡ったのが実はこの件だよ >>2
> 監督通算成績は170試合65勝105敗、勝率・382。
> 現デイリースポーツ評論家。
これは解任やむなしの成績では… >>8
>解任通告に抵抗しても意味が無いし
そんな事ないよ
藤田がゴネたから、口止め料的に億単位の特別ボーナスが出たと囁かれる >>5
好打者なんだけど地味なんだよね
性格も存在感も
打撃フォームは好きだったけどなぁ >>1
後から思えば、後任が3度目のよっさんだったのは
「日本一監督で夢よ、もう一度」
ではなく、ガタガタのチームをまとめられる一番長老で大物OBだから、というだけ。 負広とかよっさんとかも悲惨だったし、ノムさんもダメだったし、フロントの問題の方が大きかったんだろうな
星野が来るまでロクな補強してなかったし まあ悲惨なときに監督に縦すべりでなった、というう一応同情できないこともない事情もあったにしろ
ファンに何一つ夢を見させることもできなかったんだから、しょうがないわな >>15
ノムが久万を諭した話があるけど、生え抜きから球界代表クラスのスター選手をつくることに拘ってたんだよな >>5
昔から阪神ファンは生え抜きに冷淡
鳥谷への罵倒劇とか記憶に新しいだろ グレンもクールボーも上手く使ってやればな
新庄もそうだけどあまりにも厳しすぎで
外人も切れてしまったな 打率はいいけど、チャンスではポップフライみたい選手だったな
そして選手には厳しい指導で、采配はボロクソな監督になった >>24
球団人気を支えたスター選手にも容赦ないもんね。
江夏、田淵、掛布・・・ こいつ新庄の親の顔がみたいとか抜かしたじゃん。
クズ監督ですわwww これ連載記事の一つなんだけど、前の記事読んでると当時のフロントも選手もひどい状態だったのがよくわかる。
まず二軍監督に就任したんだけど、寮の食事は病院食並みで腹を空かせた選手は自分でカップラーメン買ってきて食ってるとか、遅刻連発でまともに練習に出てこないとか。
流石に今はそんなことないよね? 暗黒時代の阪神って弱いこと以外なんも記憶に
残ってねえわ
村山が割と悲惨な最期だったことだけは
なぜか覚えてる 開幕から力不足のルーキー投手ばかり使って案の定失敗
最悪な采配だった >>1
この藤田こそかっとばせキヨハラくんで桑田にいじわるしてた藤田監督? 藤田平と平松政次
センバツ決勝で相まみえた二人
揃って名球会 藤田平が解任された時に芸スポで★3までいくくらい荒れに荒れていたのを覚えてるわ >>8,>>11
解任なんで給与はさすがに保証されてた
藤田平がかなりふっかけたのも事実でその後の交渉
である程度ディスカウントさせたのも事実のようだ >>25
ホントそう
和田豊、久慈照嘉、関川浩一が好調で桧山進次郎も
なかなかいい成績を残してるしグレンとクールボー
が前年並の成績を残してれば5割だってあり得た 藤浪のあれ見て球団に否があるのは一目瞭然。この球団、選手をスポンサーの接待役に使ってる節があって野球は二の次みたいになってるな
星野が阪神監督一年目にやったことは金に色目つけず補強しろって強く言ってた。それまでノムさんが良い選手獲れって言っても全然言う事聞かなかったり酷くて奇策のF1セブンに葛西遠山だろ。こんなことさせる必要ないよ、プロ球団 >>1
砂漠のマスカレードは、まじめなネット工作員
自作自演でスレを伸ばすのが上手です 同じ厳しい監督の星野で優勝して
藤田平で空中分解して解任
何が違ったんや!政治力か! 1001はムチをやったけど
飴もやり、マスゴミ通じて真意を語り、島野がフォローした。
平は、そういうのが皆無。出来ない人だった。 ♪三番ショート藤田背番号6
虎印野球用品のCMが格好よくて平を応援するようになった儂 >>47
それプラス人望。現役時代から気難しい職人気質で口数が少なく、コミュニケーションをとり辛かったから
根回しがまったくできてなかった >>12
「藤田(平)の次は藤田(元司)?」
と1面見出し付けた関西スポーツ新聞があった。
もちろん、いくら外様おけでも巨人監督なんかあり得ない。
それくらい後釜選びが難航。マスコミ各社もネタに困ってた。 >>52
藤田省三氏はもう亡くなってたんだな
あの根本陸夫氏が直立不動になる人 >>27
>チャンスではポップフライみたい選手だったな
原だけじゃなかったのね そのイメージ >>6
マジで三塁アルプスなんか悲惨だったよね
プロ野球ニュースなんか見る1塁側から映る光景… 意味わかんねーな
藤田が納得行くかどうかなんてどうでもいい
クビって言われたらそれまで
ゴネてどうにかなるもんではない 球団にも手厳しかったから悪い噂を大きくして広めて
やめさせたんじゃないかと思ってる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています