【野球】巨人に斎藤、槙原、桑田の“三本柱”が揃っていた時代 [砂漠のマスカレード★]
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新型コロナウイルスの感染拡大で、延期になっていたプロ野球の開幕が6月19日に決まった。セ・リーグは連覇を目指す巨人、昨年2位に躍進したDeNA、オープン戦でセ・リーグ1位の阪神、昨年の雪辱を期す広島、高津臣吾新監督を迎えたヤクルト、7年連続Bクラスからの脱出を図る中日が凌ぎを削る。野球担当記者が話す。
「120試合制で時間制限も検討され、過密日程も予想される今年は、先発の役割が例年以上に重要になるでしょう。昨年は原辰徳監督が上手くやり繰りし、巨人が5年ぶりの優勝をしましたが、戦力的に圧倒しているわけではない。どの球団にもチャンスがあると思います」(以下同)
巨人は今年のオープン戦16試合でわずか2勝、最下位に終わっている。昨年、2ケタ勝利は15勝の山口俊、11勝の菅野智之の2人だった。勝ち頭の山口が抜けた今季、菅野を刺激するような若手が台頭してくることが、連覇の鍵となるだろう。
V9時代には堀内恒夫と高橋一三、1980年代には江川卓と西本聖という2枚看板がチームを引っ張っていた。1990年代になると斎藤雅樹、槙原寛己、桑田真澄という“三本柱”が君臨。そのため、チームは安定した成績を残してきた。
1987年限りで江川が引退し、翌年オフに西本が中日にトレードされ、元号が平成に変わった1989年、斎藤が前年の6勝から20勝と飛躍し、桑田が17勝、槙原が12勝を挙げる。巨人は日本一に輝き、3人は三本柱と呼ばれるようになる。同年からの10年間で、3人は計351勝。このあいだ、巨人は優勝を4回した。
「実は、3人が揃って1年間、活躍したシーズンはほとんどありません。3人とも2ケタ勝利を挙げたのは1989年、1992年、1994年の3度だけです。このうち、2度は優勝しています。
ただし、1989年はオールスター直後に槙原がケガで離脱。1992年は桑田がチームの10連勝や7連勝を止めてしまい、連勝ストッパーと呼ばれるほど絶不調に。槙原も優勝争いの9月、10月で1勝もできず、チームは2位に終わりました。1994年は3人ともシーズンを通して働き、中日との最終戦、同率首位決戦で槙原・斎藤・桑田のリレーで勝った。この年、“三本柱”の印象が強くなったのだと思います」
優勝した1990年は槙原がケガで戦列を離れており、4位に沈んだ1991年は前年まで2年連続20勝の斎藤が9勝に終わった。1993年はリーグ最下位のチーム打率2割3分8厘という打線の不振もあり、斎藤と桑田が1ケタ勝利に。1995年5月には桑田がヒジを痛め、翌シーズンまで棒に振った。
「広島との11.5ゲーム差をひっくり返した1996年は、桑田だけでなく槙原も夏場に離脱しています。この年は斎藤とガルベスが16勝で最多勝を分け合い、“メークドラマ”を達成した。1997年の開幕戦で、斎藤がヤクルトの小早川毅彦に3連発を打たれ、このシーズンから全盛期ほどの活躍はできなくなります。翌年は斎藤10勝、桑田16勝でしたが、槙原はシーズン途中から抑えに回った。3人が先発ローテーションに入っていたのは、この年の中盤までです」
3人同時に活躍したシーズンが少なかったとはいえ、1989年から1998年までの11年間で見ると、2ケタ勝利は斎藤が8回、桑田が7回、槙原が6回。3人同時の2ケタ勝利は前述のように3回、2人同時は5回、1人だけは2回。少なくとも三本柱のうち、1人はエースの役割を果たしていたのだ。この10年で、巨人のBクラスは2回のみ。甲乙つけがたい“エース級”が3人いたことで、大崩れしなかった。
「3人のうち1人ダメでも、2人残っているという安心感が、首脳陣にも本人たちにもファンにもあったのではないでしょうか。その象徴が1994年の10・8決戦。先発の槙原は打たれたが、斎藤と桑田が好投して勝った。日本シリーズでは、槙原が2勝してMVPになって雪辱を晴らした。1人のエースが10年間、ケガなく絶好調を続けられることは、まずない。3人の誰がエースかという議論もありますが、この数字を見ると、お互いがお互いを助け合っており、まさに“三本柱”という表現がピッタリ当てはまるのではないでしょうか」
これまでの実績を踏まえると、今年の巨人で2ケタ勝利を計算できるのは菅野しかいない。もし菅野が崩れると、ガタガタと大型連敗の可能性すらある。1990年代のように三本柱を形成するのは難しくとも、2年目の高橋優貴や戸郷翔征のような若手の台頭に期待したい。
https://news.livedoor.com/article/detail/18323824/
2020年5月27日 16時5分 NEWSポストセブン 全盛期の斎藤雅樹は最高の投手だった
小早川に開幕三連発喰らって自信なくして別人になった 3人そろって活躍するから三本柱なのではなくて
3人のうち誰かが悪いシーズンは、誰かが補う
そういうことだったんだな
それだって、エースひとりに依存してるチームよりはずっと安定感が生まれる この全盛期ではなく晩年は見た。斎藤雅樹久しぶりに復帰みたいな扱いだった気がする
コントロールC、スタミナBかそんな感じ
逆かどっちとCだったかも 阪神にはバース、掛布、岡田
大洋には屋敷、加藤、高木がいた 5本柱じゃなかった?
5人10勝以上香田とあと1人思い出せない アンチ巨人だったけど、齋藤の試合はつまらなかったな
こっちのピッチャー1点に押さえてるのに齋藤から点取れんのだもの
槙原、桑田は序盤にたまに崩れる場合あったからまだ期待できた この中なら斎藤が一歩抜けてると思うけどイメージだけかもしれん
乗ってる時は打たれる気しなかったなあ >>12
宮本ね
槇原抜いて木田が入って5本柱か
シーズン早く終わり過ぎて西武に4タテ食らった気がする 西武の東尾・松沼兄妹・杉本・高橋の全員二桁勝利の時代には及ばない。 三本柱の時代は俺もまだ幼かったが斎藤が苦労人だと言うことだけなぜかしっかり覚えてる 北別府 大野 川口 津田 長富
ってかどのチームもたいてい先発は3人柱だろうが 桑田って柱か?
槇原さんや斎藤さんと比べたら小物すぎる 「さいとう」という名前のピッチャーには名投手しかいない
斎藤雅樹(ジャイアンツ)
斉藤明夫(ホエールズ)
斉藤和巳(ホークス) 8試合連続完投勝利
開幕戦で3年連続完封勝利
相手からすれば絶望感しかなかった斎藤 よくファミスタで槙原→斎藤→桑田のリレーしていたな
最強だよ 木田と香田もいて10勝投手5人出て9勝のヤツもいた
9勝はピッチャーゴロ取り損ねて怪我離脱した槙原だっけ? >>24
当時の巨人と広島レベルの3人ってなかなか揃わないよ
揃ってるから優勝争いしてたわけで 定岡のことも思い出してやってください(´・ω・`) >>25
シーズン最多勝数
斉藤20
桑田17
槇原13 斎藤って引退前年のホークスとの日本シリーズで最後の輝きを見せた記憶がある。
引退したシーズンは全く覚えてない。 ガキの頃に行った最初で最後の野球観戦が親父が好きだった斉藤のラストゲームだったわ
監督とかも一斉に引退した試合
相手どこかの青いチームだった記憶 桑田は高校からのエピソードや伝説も豊富だけど
槙原もパーフェクトとバックスクリーン3連発と敬遠でサヨナラ打たれる美味しいネタだらけだな >>24
長富が入った時は津田は抑えだよ
金石とか白武が先発だった記憶 >>24
この頃の GvsC ってほとんど1点差ゲームのイメージ >>1
江川、西本、定岡 →鹿取、角 (最強)
槇原、桑田、斎藤 (そうでもない) 投手じゃないが、広島のビックレッドマシン打線もスゴかった 面子見たらピッチャーでしかアウト取れんやん。
まぁ全員が揃う事はあんまり無かったみたいだが >>24
大野斎藤の先発だと、1ー0で放送時間内に終わってた気がする あの当時の阪神ファンってどういう気持で甲子園での巨人戦に通ってたんだろう
わざわざ自分からメンタルやられに行ってたようなもんだろ
特に斎藤が先発した時なんかヒット2本続けて打たれたり1イニングに2四球出したのを観た記憶すらない >>1
あれ、定坊入れて4本柱になった事もなかったっけ? 江川、西本、定岡、
齋藤、桑田、槙原
江川くらいからしか記憶にないけど、斎藤が巨人史上最高の投手だろ
次が上原、その次に菅野。
それ以下は桑田とか同列が何人か。
堀内とかはもっと良い投手だったのかもしれんが。
12球団でいえば、全盛期のホークスの投手陣の次によさそう。 阪神戦でこの3本柱が出てきた時の阪神ファンの絶望感たるや 斉藤は凄かったな
今ならメジャー挑戦してんだろうな 思うんだけど、先発なのに大事な場面でリリーフに起用される投手が一番頼りにする存在じゃないかな
長嶋はいつも桑田
藤田は槇原をエースの扱いしてたんじゃないのか
斎藤は見てて眠くなるフォームで躍動感が無い 大洋、横浜ファンの自分は
この時代は日テレしかないから
よく見てたけど、
子供ながらに実況も解説も審判も全て巨人みたいな空気に感じたよ。 >>50
齋藤はエース
桑田は器用だからそれさせられたんだよ
槙原はおだてたり叱ったりしながらなんとか柱として使ってた
齋藤も初期は気が弱いイメージだったけど、再度になってから変わった >>45
あの当時もここ最近の巨人戦も負けまくってるからな
飲み食いして適当に盛り上がれば満足
なんなら甲子園より東京ドームのがまだ勝てるかもしれないまであった 当時の斎藤は世間からエース扱いされていなかった。
TV番組で巨人のエースは誰?というアンケートを取ったら、投票数は桑田、槇原、斎藤の順だった。
つまり桑田がエース扱いされていたということになり、斎藤は槇原より下の評価だった。
なぜ斎藤じゃないのか?という質問に対しては「なんか地味」「サイドスローのエースってピンと来ない」「振りかぶって投げるのがエース」といった回答が寄せられた。
そこでTV局が斎藤に焦点を当てるため考案したニックネームが桃太郎だったが定着しなかった。
プロ野球の世界にはエース=最多勝投手とは限らないという現実があることを証明する事実だったと思う。
やはり桑田は球界屈指のスターだったと言える。 全盛期の斎藤は絶対的エースな存在だったな
槇原と桑田は二番手って感じ 北別府・大野(後に佐々岡)・川口との三本柱対決(特に広島市民球場での試合)も
息詰まる投手戦になることが多かった >>53
斎藤は淡々とマイペースすぎて面白味無し
桑田はリリーフ嫌なのにどんどん向かって行くし大舞台慣れしてる冷静さと熱さ
槇原はヒザと股関節壊すまでは大野に投げ勝ってしまうくらい神がかり圧倒感
斎藤はロボット投球で三振奪いに行けない >>35
槙原は確かNPB通算のメモリアルホームランも打ってたはず >>47
堀内は凄かったよ
当時はテレビ中継がバックネット側から捕手目線で映していたんだけど、堀内のカーブはストライクゾーンの左上から右下にギュイーンと曲がる感じに見えた
漫画のような凄いカーブだったな
でも打たれる時は結構打たれてた記憶も。。
あと、投げ方がめちゃくちゃカッコ良くて、草野球でよく物真似してた 斎藤 桑田 槇原 ガリクソン 香田
この5人が最強ラインナップ
異論は認めない この他に木田、宮本、香田とかおったからね
まあ、強いよ
先発5人が二桁勝利なんて年もあったし 香田さんとことも思い出してあげて(><)
んっごう!! >>58
今考えると当時の巨人で抑えってすごいプレッシャーだっただろうな >>53
斎藤雅樹が弱気だってマスコミが書いたんでそうなっただけで
本当は違ったそうな
そういや10.8で1番やばい場面リリーフしたの斎藤だ 槙原は目が極端に悪くて自分からサイン出しててそれを相手チームに殆ど読まれてたらしいね
やりようによっては200前後勝てただろう 1990年が最強ちゃうか
斎藤20勝
桑田14勝
宮本14勝
木田12勝
香田11勝
槇原9勝
先発だけで80勝 桑田はエース気取りだけど斎藤だけには勝てなかったと認めてるよね 3本柱も若い頃は完投が基本だったな
年取ってそうはいかなくなって石毛とかに勝ちを消されてたイメージ 満員の後楽園球場の巨人戦がTV中継され
お茶の間で家族で見入った時代は二度と来ない 斎藤は絶対的エースだったけど
桑田は波があって連勝ストッパーとか言われてたし
槙原はチキンハートの雑魚専で上位球団にはよく負けた 1番凄いボールを投げてたのは、槇原と大野だったよな >>27
11試合連続な。
>>4
前年に170球以上投げて完投したのがあって、それで壊れた。 >>89
北別府、大野、川口のカープ三本柱に槙原が競り勝ってくれていつも嬉しかったが?
むしろ斎藤雅こそ阪神みたいな雑魚戦のイメージ 全盛期毎年20勝してた頃よりも、シアトル前期の方が全然凄い球投げてた、ランディ・ジョンソンのように
斎藤や北別府の方が勝つには勝つけど、質と言うか球威と言うか回転数と言うかは、明らかに槇原大野の方が上 ヤクファン的には斎藤が先発だと打てる気がしなかった。 槇原は1989年のペナントレース前半戦と1994年の日本シリーズが凄かったね >>84
その年は1軍でピッチャーを10人しか使わなかったんだよな。
今考えると異常だ。
先発 斎藤雅樹 27試合 19完投 224.0回 20勝 *5敗 *0S 防御率2.17 最優秀防御率賞・最多勝・MVP
先発 桑田真澄 23試合 17完投 186.1回 14勝 *7敗 *0S 防御率2.51 防御率2位・勝利数2位
先発 宮本和知 28試合 10完投 190.1回 14勝 *6敗 *1S 防御率3.69 勝利数2位
先発 香田勲男 23試合 *4完投 130.1回 11勝 *5敗 *0S 防御率2.71 防御率4位
先発 槙原寛己 17試合 *6完投 102.1回 *9勝 *5敗 *0S 防御率3.96
先抑 木田優夫 32試合 13完投 182.2回 12勝 *8敗 *7S 防御率2.71 防御率3位・最多奪三振
中抑 水野雄仁 34試合 *0完投 *68.2回 *2勝 *2敗 11S 防御率1.97
中抑 吉田修司 21試合 *1完投 *46.1回 *3勝 *3敗 *1S 防御率3.69
中抑 広田浩章 15試合 *0完投 *31.1回 *3勝 *1敗 *2S 防御率1.72
中抑 加藤初 *6試合 *0完投 *13.2回 *0勝 *0敗 *1S 防御率2.63 ※投手コーチ兼任 >>34
どうせなら消化試合じゃないガチンコを見に行けばよかったのに 新庄に敬遠球をサヨナラ安打された後
なぜか車椅子でグラウンドを去った槇原
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