コンサバ系アイドルだった中山美穂がバブルを席巻した名曲の数々(FRIDAY) - Yahoo!ニュース
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5/24(日) 11:02配信 サリー久保田(ファントムギフト、les 5-4-3-2-1、SOLEIL)

松本=筒美=船山のゴールデントリオが中山美穂で結実した、ダンス・ビート歌謡最高峰の三部作

J-POPの礎を築いたといわれる偉大なヒットメーカー、筒美京平。
わたくしサリー久保田が毎回ひとりの’80年代アイドルを取り上げ、
そんな京平サウンドの魅力について筆をとらせていただております。第2回は中山美穂です。

筒美京平は中山美穂に、デビュー曲「C」(1985年)から「派手!!!」(1987年)まで、6枚のシングル曲を提供しています。
中でも作詞・松本隆、編曲・船山基紀で臨んだ
「ツイてるねノッてるね」(1986年/大村雅朗と共同アレンジ)「WAKU WAKUさせて」(1986年)、「派手!!!」(1987年)の三部作は
中山美穂アイドル時代の最重要曲であり、同時に京平ダンス・ビート歌謡の集大成といわれています。
これらの名曲はどうやって完成したのか!? 今回はそのルーツも辿りながらお話ししますね。

■すべては作詞家・松本隆の“ミポリン推し”から始まった

 中山美穂は1985年、ドラマ『毎度おさわがせします』で女優としてデビュー。ドラマではツッパリ少女役、
同年の映画『ビー・バップ・ハイスクール』でもヤンキーたちのマドンナを好演するなど、女優と歌手を兼業しながら、
それまでのぶりっ子アイドルとは違う魅力を発揮していきます。
同期はおニャン子クラブ、南野陽子、本田美奈子、斉藤由貴など。タヌキ顔が多い女性アイドルの中で、
中山美穂はキリッとした目元が印象的なキツネ系美人。
また、ファッション雑誌『ViVi』のカバーガールの常連だったこともあって、コンサバ系のお姉さんたちにも一目置かれる存在となります。  
 そんな彼女の魅力にいち早く注目したのが、作詞家の松本隆でした。TVを観て中山美穂を気に入った松本隆は自ら作詞を志願。
一説によると本田美奈子のレコーディングでスタジオ入りしていた筒美京平を訪ね、曲を書いてほしいと直談判したらしいです。

デビュー曲「C」のツッパリ、ちょいワルで早熟だけど、実は繊細な女の子≠ニいう詞の世界観と中山の拙い歌声がみごとにマッチし、
歌手としても好スタートを切りました。京平ダンス・ビート歌謡の最高峰が生まれたきっかけは、実は松本隆のミポリン推しにあったんですね。

■ワンレンボディコンお立ち台。バブル絶頂期の「ツイてるねノッてるね」で初のトップ3入り

 ダンス・ビート三部作が生まれた頃の日本は、まさにバブル絶頂期。元祖お立ち台のマハラジャを筆頭に
ディスコ人気(第二次ディスコブーム)が高まり、女の子たちはみんな平野ノラみたいな(ちょっと古いか?)
ワンレンボディコン。歌謡界でも荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー」(1985年)、森川由加里の「SHOW ME」(1987年)
といった洋楽カバー曲が大ヒットしました。そんな時代に登場したのが
中山美穂7枚目のシングル「ツイてるねノッてるね」(1986年)です。
 正確には、編曲は大村・船山の共同アレンジですが、ここから至極の三部作が始まります。
小泉今日子やC-C-Bなどで培った成功と実績が、中山美穂で大爆発します。
筒美京平は受注が来て曲を書く職業作家なので、とにかく売れることがマストの使命。
自分の書いた曲がオリコンのベスト10内に入らなかったら意味がないという意識を常に持ち続けていました。
当時の洋楽シーンはカイリー・ミノーグやバナナラマといったユーロビートが全盛。
そんな洋楽のエッセンスを取り入れつつ、どこか懐かしいメロディーに最先端の音を組み合わせるのは、
筒美京平が得意とするところでした。
 サビのコードはBm→Em→A7→Dとスムーズに流れる5度進行で、
♪ツイてるね、ノッてるね≠ヘメロも歌詞もシンプルなのにとってもキャッチー。グッと来ますもんね。
時代の後押しもあり、この曲は中山美穂初のチャート3位となります。

■ヒットのベースにあったのは’60年代からソウル・ディスコに向き合ってきた筒美京平のパッション
■煌びやかなアレンジがたまらない! 最高峰の「WAKU WAKUさせて」満を持して誕生
■「派手!!!」の元歌は小泉今日子の「なんてったってアイドル」!?

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