ライジングプロホールディングス代表・平哲夫と、沖縄アクターズスクール校長・マキノ正幸。日本の芸能史に大きな足跡を刻む二人が、ノンフィクション作家・田崎健太にその半生を赤裸々に明かす連載『二人のヒットメーカー』。

 荻野目洋子と出会い、ライジングを設立した平。昭和から平成へと時代が移り変わる中、いかにヒットメーカーとしての地位を確立したのか。平が語る、あの名曲誕生の裏側とは──。(文中敬称略)
聴いた瞬間「これは売れる」

名曲「ダンシングヒーロー」は、なぜ時代を超越する力を持ったのか
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 八四年、平哲夫はライジングプロダクションを設立、十六歳の荻野目洋子をデビューさせた。

 一枚目のシングル曲『未来航海』の売上げは約七万枚とまずまずだったが、二曲目の『さよならから始まる物語』は四万四千枚、続く『ディセンバー・メモリー』『無国籍ロマンス』は二万枚台に留まっている。

 「当時(のアイドル)は、三ヵ月に一枚ぐらいシングル曲を出していました。イベントに呼ばれたりしていたので、荻野目洋子自体は赤字ではなかった。タレントを維持していくには全く問題がなかったんです」

 とはいえ、突き抜けて売れることもない。その理由は楽曲にあると平は睨んでいた。

 彼が考えていたのは、荻野目の伸びやかな声を生かすことだった。しかし、そうした楽曲が仕上がってこないのだ。

 「ぼくは今もそうなんですけれど、ブリブリ風アイドルって得意じゃないんです。男性タレントでも女性タレントでも、スーパーヒーローでいて貰いたい。荻野目のときだって、可愛い子は山ほどいるんです。それよりも彼女の声を生かして欲しい。ブリブリ風でもいいけれど、起伏のある曲がいい、と作家に頼んでいました。でも、分かりましたと言いながら、出て来る曲はブリブリ風」

 曲を作る人間たちが、荻野目をアイドルという枠に押し込めようとしているようで、平は不満だった。

 「(ビクターエンターテインメントの)制作部長だった飯田久彦さんに今後のことを相談したときに、ストックとして持っていた曲を、製作課長の高橋隆さんが三曲聴かせてくれたんです」

 外国人アーティストの楽曲だった。気に入った曲があれば、日本語訳をつけて使ってもいいという。その中の一曲を聞いた平は、おっと思った。

 「聴いたとき、これは売れると思いましたよ。後は詞をどうするか。歌っていうものは、半分メロディで半分が歌詞。歌詞が半分の力を持っているから、ものすごく大事ですよね」

 そのとき、頭に浮かんだのは一人の若い男の顔だった。

 「当時スカウトした、高校二年生ぐらいの男の子がいた。その子が “ぼく、週末に変わったバイトをやってます” って言うから、どんなバイト? って聞いたら “新宿のディスコでぼくがステップを踏んだら、みんなが真似る。これがバイトです” って。その子は結局、デビューしなかったんですけれど、その言葉が頭に残っていた」

 さらに――。

 「 “竹の子族” から “ローラー族” になっていたのかな。千葉、埼玉とか東京近郊から中学生の女の子が、夕方四時ぐらいになると(地味な服に着替えて)原宿から帰る。そうした女の子を、なんとかたぶらかそうという男の子たち。そんなイメージで詞をつけて欲しいと頼みました」
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