YGマークでの最後は…

 94年巨人春季キャンプ、背番号のないユニフォームを着る37歳のテスト生がいた。2度のテスト登板に、1試合の追試。西本の著書『長嶋監督 20発の往復ビンタ』(小学館文庫)によると(それにしても「20発の往復ビンタ」って本のタイトルからして内角ギリギリを抉ってる)、急遽追加された3試合目は「西本さんが投げるんだったら、僕が守ります」と慢性的なアキレス腱痛に悩まされていた原辰徳が三塁守備に就いたという。80年代にともに巨人を支えた盟友からの気遣い。

 なんとか合格を勝ち取った西本は、往年の背番号26ではなく、自身の新人時代に長嶋監督がつけていた90番でプロ20年目をスタートさせる。しかし、だ。当時の堀内恒夫投手コーチが東京スポーツで「オレが西本を使わない全理由」をぶちまけ騒動になる。自著によると、年末に西本は堀内を訪ね、「入団してきたら俺はおまえを起用する」と言われたはずが、「あいつにテストを受けるなと言った」に変わっている。いったいなぜ?

 ともかく直属の上司にここまで嫌われてしまったら、もうチャンスはない。二軍ではハタチそこそこの若手から「西本さん、よくプッツンしないでやれますね」なんて心配されたこともあったという。何の仕事も、年下の後輩から同情されると惨めだ。

 窓際の38歳は、結局一軍で1試合も投げることなく、あの中日と戦った130試合目の同率優勝決定戦も西本はテレビで観た。そして、優勝決定の翌日に長嶋監督に電話を掛け、10月13日に引退会見を開くことを伝えるのだ。

 翌95年1月21日、多摩川のグラウンドでささやかな引退試合が行われる。有志主催の手作り感溢れる雰囲気だったが、過去のチームメイトたちに加え、なんとミスターもサプライズで登場。始球式だけでなく代打で打席にも立ち、西本からボテボテの三塁内野安打を放ち盛り上げた。

 巨人で126勝、移籍後に39勝を積み重ねた反骨の男。なお通算165勝はドラフト外入団投手では史上最多だ。

 さて、その西本が若手時代から尊敬し憧れ、80年11月の引退ゲームでファーストミットを記念に貰った選手がいる。世界のホームラン王、王貞治である。


(次回、王貞治編へ続く)