プロ野球はいまだに開幕が見えない。4年連続日本一を目指すソフトバンクの生の戦いをファンに伝えられない中、弱小軍団と呼ばれた時代からひたすらホークスを追い続けてきた西日本スポーツならではのコラム「鷹番は見た」を企画した。歴代担当記者があの日、あの試合、あの出来事を振り返る

着信履歴に「ふじいまさお」
 今から20年前の2000年10月13日。列島が「ON対決」で沸いた日本シリーズの開幕直前、福岡ダイエー(現福岡ソフトバンク)の「炎の中継ぎエース」こと、藤井将雄さんが肺がんのため、31歳でこの世を去った。現在の投打の主力でもある千賀は7歳、柳田は12歳の少年だった。ダイエー初優勝時の主戦だった現ソフトバンクの工藤公康監督、主将の秋山幸二さん(本紙評論家)ら先輩からかわいがられ、後輩から慕われた熱血漢。私は藤井さんの携帯番号を消さないままにしている。先日、着信履歴があった。「ふじいまさお」と表示されていた。

 本名が「政夫」で登録名が「将雄」だった藤井さんの番号を、私はどういうわけか平仮名で入力していた。不思議なこともあるんだな、と感じたところで、ふと一軒の焼き肉屋を思い出した。「ひょっとしたら、たまにはお店に顔を出せよ、と言っているのかも」。そう解釈し、千葉・浦安の「大同苑」に久方ぶりに電話を入れた。藤井さんと同い年の私が初めて連れられていった店。「今は出歩けないでしょうが、(コロナが)落ち着いたら、また食べに来てくださいね」。藤井さんのことを知る従業員も懐かしがってくれた。

 私が藤井さんと一緒に訪れたのが1999年8月、ダイエーの千葉遠征で「肉でも食ってスタミナを付けようや」と誘われた。人と煙と活気に満ちた店内の雰囲気は藤井さんの人柄とダブっていた。初優勝を目指していた当時のダイエーは首位を死守しながらも西武の追い上げを受けていた。店で藤井さんと何を話したのか、あまり覚えていない。記憶にあるのは先輩の工藤投手のこと。優勝の経験者が数えるほどのチームで、若手に「もっとやれ」「もっとできるはずだ」と声を大にしていた工藤投手は嫌われ役を買って出た。その思いとは裏腹に、一部でブーイングも起きていた。

「工藤さんが言ってること、俺は間違ってないと思うよ。」
 「工藤さんが言ってること、俺は間違ってないと思うよ。誰だって嫌われたくないやん。それに人に嫌なことを言うのって、すごいエネルギーがいることやし。言われて悔しかったら『負けてたまるか!』って見返したらいいやん」

 威勢のいい口調の一方で藤井さんは盛んに口に手を当てていた。それが気になった。「最近、せきが止まらんのよ。ちょっと風邪をひいたかもしれん」。風邪どころではなかった。肺が病魔に侵されていた。気力で投げていたのだろう。4番手で登板した8月15日のロッテ戦。藤井さんは3回1/3を無失点に抑え、その年の「鬼門」だった敵地千葉でのチーム初勝利をもたらし、自身も勝利投手になった。プロ通算13勝目。翌年亡くなる藤井さんにとって現役最後の白星となった。

 「勝利の方程式」の一角としてだけでなく、マウンドを離れても工藤投手らベテランと若手の“つなぎ役”だった。入退院を繰り返した2000年も2軍戦6試合に登板。「負けてたまるか!」を貫き、福岡ドーム(現ペイペイドーム)が見える病室から仲間を励まし、最後は10月7日のダイエーのリーグ連覇を見届けるようにして旅立った。息を引き取る直前、私は「ふじいまさお」から携帯電話に連絡をもらった。声の主は本人ではなく、看病で付き添っていた方からだった。家族に代筆してもらった日記をファンとチームメートへのメッセージ「皆様へ」として文章にしてほしいという、病床の藤井さんから私への依頼でもあった。

5/13(水) 11:07 Yahoo!ニュース
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