青学大が箱根駅伝に初出場した1943年(昭和18年)の第22回大会で、同大学の選手として、第1区を走った森豊さんが3日、東京・世田谷区内で老衰のため亡くなったことが9日までに分かった。97歳だった。

 箱根駅伝は戦争の激化した1941年、軍部からの圧力によって、一時中止に追い込まれた。だが、学徒動員で戦地に駆り出される学生たちの中には「死ぬ前にもう一度箱根を走りたい」という願う選手が多かった。当時、青山学院専門部の経済学部4年生で、20歳だった森さんもその一人だった。そして、学生たちの強い願いによって、戦時中の43年に再開。靖国神社を発着点とし「戦勝祈願」という名目だった。

 「紀元二千六百三年 靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬縦走大会」と改名されたこの大会には、11校が参加し、青山学院専門部は初出場だった。第1区を走ったのが、森さんだ。個人成績も、青学大の総合成績も最下位だったが、現在の栄光へとつながる青学大の記念すべき第一歩を踏み出したのは、森さんに他ならない。

 「幻の大会」とも呼ばれるこの大会を走った学生の多くはその後、兵役で戦地に駆り出されて戦死した。森さんも大会後には、広島の輜重(しちょう)部隊を経て、激化していた中国戦線へ。当地で陸軍少尉となった。転属命令を受けて列車で満州(中国東北部)へ向かう途中で終戦を迎えたという。

 生き残った森さんは「箱根駅伝を走って靖国で会おう」と誓い合った多くの仲間たちが戦死していった悲しみが、ひと時も忘れられなかったという。箱根駅伝を走ったことは心の奥底にしまい込み、家族にも語らなかった。家族たちが初めて知ったのは2015年に青学大が初優勝し、その歴史がクローズアップされた時だった。

 2017年の正月、森さんはゴール手前で車いすに乗って初めて観戦。青学大の総合優勝が決まると、74年前の記憶がよみがえったのか「うれしい」と声を絞り出し、目にうっすらと涙を浮かべていた。

 18年、19年にも復路ゴール近くの沿道で観戦したが、今年は体調が優れなかったため、テレビで観戦。付き添っていた長女の平野みどりさんは、前年に東海大に奪われた総合優勝を奪回する瞬間の森さんの様子を「すごく喜んでいました」と振り返った。青学大の第一歩を踏み出したパイオニアは、後輩たちの活躍をしっかりと見届け、天寿を全うした

スポーツ報知 2020.5.9
https://hochi.news/articles/20200509-OHT1T50031.html