0001征夷大将軍 ★
2020/05/07(木) 19:44:30.63ID:glVFz47O9東洋大学(以下、東洋大)陸上競技部は1927年に創部し、90年以上が経ちました。箱根駅伝には1933年の14回大会から、戦争による中断や予選落ちによる不出場を除いて78度出場しています。出場回数では、中央大、早稲田大、日大、法政大に続く伝統校です。
しかし、決して強豪校ではありませんでした。1960年に3位に入っているものの、たいていは10位前後。私が在籍していた1990年代もそうでした。そこに、日本体育大から実業団の旭化成で活躍し、2000年シドニー五輪マラソン代表の川嶋伸次さんが2002年に監督となり、環境整備と改革が進み、上位を狙えるチームに転じていきました。やがて、2009年の85回大会で「新・山の神」と呼ばれた柏原竜二を擁して初優勝。実に67度目の挑戦で勝ち取った、箱根駅伝で史上最も遅い優勝でしたが、これまでに優勝4度、11年連続で3位以内に入り、常に頂点を目指すチームに成長を遂げました。学生時代にケガが多く、貧血に悩まされていた自分が、母校の監督になるとはまったく思っていませんでした。
1999年に東洋大学を卒業した私は、コニカ(現・コニカミノルタ)に入社しました。6年間、実業団で競技を続けた後、2005年春に母校の学法石川高校(福島)に社会科の教諭として着任し、陸上競技部の顧問に就きました。4年目を迎え、部活動の指導もようやく軌道に乗りかけたころ、まさかの知らせが飛び込んできました。
2008年12月初旬、2年生の担任だった私は、修学旅行の引率でシンガポールに行っていました。当時の学年主任の先生も東洋大の卒業生で、その先生から母校の陸上部に不祥事があったようだと聞かされたのです。
そんななか、年内に一度、川嶋さんから「次の監督候補の一人として考えている」と電話をいただきました。ですが私は、即答でお断りしました。当時働いていた学法石川高の陸上部もこれからという時期で、福島県内の有力な中学生を私が勧誘し、翌春には良い選手たちが集まる予定だったからです。家族のこともあります。妻は当時県立高校の保健体育教員で、陸上競技の方でも福島県陸上競技協会の競歩コーチなどの責任ある職に就いていました。いろいろなことを総合的に考えれば、到底引き受けることはできませんでした。年が明け、2009年正月。箱根駅伝当日はOBが移動するためのバスに家族で乗せてもらい、5区のコース上で柏原を応援しました。柏原は9位でタスキを受けると、1位との4分58秒差を大逆転して、東洋大を初の往路優勝に導いたのです。箱根駅伝に優勝した後、川嶋さんから再度連絡をいただきました。今度は「直接会って話をしたい」と言われ、数日後に川嶋さんが福島にみえました。私はその場で、「検討します」とだけ返事をしました。当初、妻には黙っていましたが、何かあったことに気付いた様子だったので、「監督要請のお話を断った」と告げました。すると妻は、「引き受けた方がいい」と、私よりもむしろ積極的でした。迷っている私に、「こんな機会は滅多にないのだから」と説得してきました。さまざまなことが頭をよぎりました。私は学生時代、キャプテンを務めていた4年生のときにケガ明けで箱根駅伝に出場できず、どこか不完全燃焼のまま卒業しました。
もちろん、目の前の陸上部と担任をしていた生徒たちを放って、大学の監督など到底できないという思いが第一でした。しかし、大学という上のレベルから声を掛けられたのは光栄なことで、やってみたいという率直な気持ちもありました。私は東洋大の監督を引き受けることに決めました。