0001アレ浦和 ★
2020/04/27(月) 16:11:05.73ID:j5Xq1t7q9サッカー王国ブラジルで最も危険なダービーで知られるコリンチャンス対パルメイラス戦や、ボカ・ジュニオルスの本拠地、ボンボネーラで漂う狂気に似た空気を数多く吸ってきた私にとっても、あの夜の埼玉スタジアムは異空間だった。
2008年10月22日、ガンバ大阪は宿敵、浦和レッズとのACL準決勝2レグに挑んだ。
5万3287人のサポーターを飲み込んだ埼玉スタジアムは、番記者の私にとっても完全アウェイ。
地鳴りのような野太いコールが鳴り響くスタジアムを見渡せる記者席に足を踏み入れた時、全身に鳥肌が立ったのを今でもはっきりと覚えている。
1993年のJリーグ開幕戦で顔を合わせて以来、幾度となく対戦してきた両雄ではあるが、FIFAアンセムとともに入場して来るのは第1レグに続いて2度目のこと。国内で覇権を争ってきた2つのビッグクラブが唯一、国際タイトルを懸けてぶつかり合ったのが2008年のACLだった。
◆大一番で立ちはだかった浦和の壁。
当時の両チームの力関係を象徴するのが、西野朗監督が自嘲気味に口にしていた言葉である。
「引き立て役」
ガンバ大阪にとって浦和レッズは大一番での「天敵」だった。
2006年はゼロックススーパーカップで敗れた後、J1リーグ最終節では直接対決。埼玉スタジアムで逆転負けを喫して連覇を逃すと、2007年元日の天皇杯決勝でもその軍門に下っている。
タイトルを賭けた直接対決で長らく乗り越えることが出来なかった浦和レッズ。
「いつも浦和の壁があったので乗り越えたい」と明神智和が話した言葉は、選手とサポーターのみならず、ガンバ大阪を日々、取材する番記者の誰もが抱いた気持ちだった。
◆第2レグ前半、明らかに劣勢だった。
第2レグから遡ること2週間前の10月8日、万博記念競技場で行われた第1レグは1対1のドロー。
勝利か2点以上を奪ってのドローならば、ガンバ初の決勝進出が決まるものの、立ち上がりから明らかに硬さが見られ、劣勢を強いられた。
36分にはクリアミスを拾った高原直泰に先制ゴールを献上。そして、42分にも高原の強烈なシュートがクロスバーを直撃する。
勝負ごとに「たられば」がないのは承知しているが、あの一撃が決まっていれば、ACLの歴史の1ページは確実に書き換わっていたはずだ。
辛うじて徳俵に足がかかった状態で試合を折り返した「引き立て役」だったが、他ならぬ指揮官は冷静だった。
大会直後、西野監督に行ったインタビューで試合中の心境を聞かせてもらったことがある。
「確かに少しずつレッズに流れが傾いていたし、前半の4分の3ぐらいはレッズペースだと僕も感じていた。でも、1対1にすればひっくり返せると選手には伝えた」
◆流れを一変させた西野采配と遠藤。
後半は「勝負師、西野」の真骨頂とも言える45分間だった。
日頃はクールな西野監督がライバル心をむき出しにする相手が浦和レッズ。
準々決勝のアルカラマ(シリア)戦後、「準決勝でレッズとやりたいという気持ちで挑んだ」と話したほど、西野監督も「打倒浦和」に強い思いを抱いていたのだ。
明らかに劣勢だった前半の流れを一変させたのは、その西野采配だった。
前半用いた4-4-2のフォーメーションを後半から4-5-1にスイッチ。切り札だった佐々木勇人を右ワイドに起用すると、佐々木が得たCKから後半6分、同点ゴールが生まれた。
遠藤保仁のピンポイントキックを滞空時間の長いヘディングで合わせた山口智がゲット。
後半28分にはやはりCKから明神がニアサイドで合わせて、試合をひっくり返すのだ。
そして、アウェイゴール2点を奪われ明らかに意気消沈した感がある宿敵に、引導を渡したのが大黒柱の遠藤だった。
>>2以降に続く
2020/04/26 20:00
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