【忘れられない1ページ〜取材ノートから〜】
11年に中日を球団史上初の連覇に導き、落合博満監督(当時57)はユニホームを脱いだ。
退任が発表された9月22日以降、15勝6敗3分けの快進撃で10月18日の横浜戦(横浜)で就任8年で4度目の頂点に立った。
最大10ゲーム差あったヤクルトを抜き去る大逆転劇は、オレ流監督らしい計算と忍耐、選手教育の集大成だった。

3―3で延長10回に入り、試合開始から3時間30分を経過していた。
東日本大震災の影響による節電策としてこの年に採用されたのが「3時間半ルール」。
マジック1の中日は引き分けで優勝を決め、落合監督が6度、横浜の空に舞った。

俺らしくていいじゃないか。4度の優勝全てパターンが違うもんな。04年は負け、06年は勝ち、去年は試合のない日に決まった。なら、今年は引き分けしかねえ。そんな気がしていたよ」

どんな形でも、最後に髪の毛1本でも上にいればいい――。
就任時から何度も聞いてきた持論だ。言葉通り、正念場での勝負の勘の鋭さ、運の強さは恐るべきものだった。

8月3日時点で10ゲーム差をつけられたヤクルトを大逆転する起爆剤となったのが、9月22日の「退任発表」だ。
4.5差まで迫っていたこの日から直接対決4連戦で、追い上げムードに水を差すような突然の発表。
落合監督は選手には一切、話さなかった。
球団には「監督から説明してください」と頼まれたが固辞。
「大一番を前に、監督が来年やらないなんて話は必要ない」と突っぱね、普段通りを貫いた。

優勝争いのさなかでの発表で、チームが崩壊しても不思議ではない。
ただ、落合竜には逆に出た。その日から破竹の進撃を開始。
以降の13試合を10勝2敗1分けと勝ち続け、10月6日に首位に立った。
選手が「監督の花道を飾ろう!」と奮起した…となれば、収まりのいいストーリー。
だが、当時の取材ではそんな印象はまるでしなかった。
むしろ「監督がいなくても俺らはできる」ことを証明するのを、競い合っていたかのように感じた。

選手を批判することはない一方で、内心も明かさない。
何を考えているか分からない指揮官に「アンチ」が多かったのも確か。
9月22日の発表を聞き、大喜びした選手もいた。
それでも、そんな選手に染み込んでいたのが「誰かのためじゃなく、自分の生活のためにやる」という落合野球。

退任発表で選手のプロ意識が覚醒したことが、快進撃につながったとみている。

もう一つ、最終盤戦での逆転劇の大きな要因が、東日本大震災による日程変更のアヤだった。
3月25日予定だった開幕が「3・11」の被災で4月12日までずれ込んだ。
シーズン前に全試合をシミュレーションする落合監督には大きな誤算。
ただ、新日程で10月に得意のナゴヤドームでの10連戦(4日から13日)が組まれたことが、指揮官の頭の中にあった。

 「最終的に名古屋で10連戦が組まれた、組まざるを得なかった。
幸か不幸か…、なんて言い方はいけないんだろうけど、結果的にウチには良い方に出たってこと。どういう形でどの位置で10連戦を迎えられるか。それをずっと考えていた」

ヤクルトに大きく離された時も、10連戦までに射程圏内にいれば勝負になる計算があった。
内心はヒヤヒヤでもじっと我慢。狙い通り、8勝1敗1分けで一気に抜き去った。

 基本的には物事を最悪から考えるネガティブ思考。ただ、一度腹をくくればテコでも動かない。
退任発表後も無表情でベンチに座る姿は、味方に安心感を、相手には威圧感を与え続けた。監督、そして人間・落合博満の真骨頂を見せつけた最後のリーグVだった。

 ≪上層部に“敵”敗戦で球団幹部ガッツポーズ≫引き分けによる優勝決定は85年阪神以来、26年ぶりだった。
1面は選手たちの手で宙を舞った落合監督。そして、2、3面では信子夫人とともにビールかけで笑顔を見せる指揮官の写真をメインに据え「夫婦対談」で埋め尽くした。大逆転へのターニングポイントを問われると「この際だから、言っちゃうけれども“俺らが勝ってもらっちゃ困る”と思っていた球団幹部が、9月の巨人戦でウチが負けた時にガッツポーズしてからなんだ。全てはそこから始まった」と話しだす衝撃の対談だった。

4/26(日) 5:30 Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200426-00000063-spnannex-base

https://youtu.be/Yae16rs0RQo
燃えよドラゴンズ 2011

https://i.imgur.com/F3SNcMk.jpg