【野球】山崎隆造が語る昭和黄金期の監督。古葉、阿南時代のカープとは?
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私がプロ入りした当初の監督が古葉竹識監督でしたが、本格的に古葉監督の元でプレーしたのはプロ2年目の78年です。
右打ちだった私はスイッチヒッターに挑戦することになりましたが、進言してくれたのが古葉監督でした。
すんなり左打席の感覚をつかんだ私はファームで結果を残すことができ、プロ3年目の79年夏に一軍昇格できました。
今でも記憶しているのは、一軍に昇格したばかりの私を巨人戦でスタメン起用し、プロ初安打を打つことができました。
当時全く実績がない選手だった私をすぐにスタメン起用してくれたことは、今思い返してみてもすごいことだと感じます。
79年、80年にかけて2年連続日本一を達成しましたが、この時期に古葉野球を本格的に体感し始めました。当時の古葉さんは『口数が少ない監督』という印象でしたが、若かった私はよく怒られました(苦笑)。
古葉さんは私に対し、まず『目で物を言う』といった感じでしたし、そんな古葉さんに威厳を感じていました。
普段からしっかりと一人ひとりの選手を見ている監督でしたので、私たちには練習中も試合中も絶対に気を抜けない雰囲気が常にありました。
後に聞いた話では、『監督というのは選手をずっと見続けるのが仕事だ』と仰っていたようです。選手を見続けることで、ちょっとした仕草からも調子を見極めていたのだと思います。
また古葉さんからは、基本の大事さを教わりました。『プレー中は絶対に球から目を離すな』とよく言われたことが印象深いです。
古葉野球はいろんな表現がありますが、緻密に相手のミスを突き、足を使った攻めを多用して巧みに得点を奪う、そして投手を中心とした守りの野球でした。
私は若い頃から足を武器とする選手だったので、起用していただいたのだと思います。
攻めにおいて機動力を重視される采配でしたので、俊足の選手であれば、当時の私のように若手であっても『チャンスがあればフリーで盗塁を狙え』という方針。
ですので、そういう状況で走らなければ、「何故走らんのだ!」と叱られることも、しばしばありました(苦笑)。
83年から私はレギュラーとして起用され、古葉監督が退任される85年まで連続試合出場を続けました。
長いシーズン、必ず痛みを抱えてプレーする時期はあります。ですが、『レギュラーとは体調が万全でなくとも、試合に出続けること』というものを言葉ではなく、起用法から教えられました。
後に今も球団で活躍するトレーナーの福永(富雄)さんから聞いた話では、私が肉離れをしていた時、古葉さんは「山崎が万全でなくとも、70〜80%の力を出せるのであればチームのためになる」と仰っていたようです。
当時、私はポジション確保に必死でしたので、後にそれを聞いた時、初めて古葉さんから信頼されていたんだと実感することができました。
古葉さんがいなければ私はスイッチに転向していませんし、選手生命も短く終わっていたでしょう。
私の野球人生においての恩師です。古葉さんの座右の銘に『耐えて勝つ』とありますが、正にその通りで、橋慶彦さん、私にしても当時実績のない若手を起用するには相当の我慢が必要であったと思います。
未だに古葉さんに会えば背筋が伸びますし、何年経っても関係性は変わりません。いわば、“昔ながらの厳格な親父と息子”のような関係性でしょうね。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200326-00100185-hathlete-base
3/26(木) 6:00配信
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/show_img.php
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https://nipponbaseball.web.fc2.com/personal/batter/yamazaki_ryuzo.html
成績
https://www.youtube.com/watch?v=D5iRFwmC8q4
山崎
https://www.youtube.com/watch?v=ub04i39LHBI 古葉さんが監督退任後の86年から、長年コーチだった阿南準郎さんが監督に昇格されました。コーチ時代の印象は物腰柔らかく、優しい方というイメージで、監督になられてからも基本的に変わりませんでした。
古葉さんの下に長年就いていた方で、就任会見でも古葉野球を継承すると仰っていました。それだけに自分でやりたい野球を封印されていた印象がありましたが、それは野球観が古葉さんと同じだったということでしょう。
ですが、スタメン、投手起用にしてもこれと決めれば頑固なまでに、それを押し通すなど、采配的なものは頑固さがある方で、これが阿南監督の特徴です。主力としてプレーさせていただきましたが、レギュラーの私を大人扱いしてくれた監督でもありました。
就任1年目の86年に優勝しましたが、当時は外国人選手がおらず、純日本人チームで古葉野球を見事に継承し、勝つ野球を知っていた主力メンバーをうまく起用されていました。
野球の緻密さを知るメンバーが各々の役割を遂行し、阿南さんの頑固さが上手く融合した上での優勝だったと思います。
いわゆる黄金時代と呼ばれた時代を振り返ってみれば特に古葉監督時代、コーチ陣はみなさん監督を慕っていたイメージがありました。阿南さんが監督になられて古葉野球を継承されたのも納得できます。
それだけ当時はカープ野球がはっきりしていて、選手としても先輩の背中を見て後輩が育つという伝統がありました。そして首脳陣と選手が同じ方向を見て、常に一丸だったからこそ、常勝軍団を形成できていたのだと思います。 せーの!イチロー!コールはリューゾーコールのパクリ。これ豆な いつの間にか山崎「隆造」に戻ってるけど、「立翔」やめたのか? 1 山崎
2 慶彦
3 衣笠
のイメージがいまだに強いな >よく怒られました←鉄拳制裁
>叱られることも←鉄拳制裁 他ファンだが古葉さんが試合中ベンチ奥から左半身だけ見せて
注視してた姿を懐かしく思い出す 広島のバラエティ番組で千鳥の大悟が二日酔いで遅刻してきた時…隆造は((( ;゚Д゚))) 鉄人衣笠も骨折して休みたいのに、古葉監督の鉄拳制裁が怖くて休めなくての記録でしょ? ハムが一位から三位までドラフト指名拒否られたときの一位は広島の甲子園球児で「カープと相思相愛だから他は指名しないで!お願い!」つったが、
当時から空気読まないハムが強行指名
入団拒否して社会人行ったが怪我やらあって何とかヤクルトにドラフト外で入ったものの泣かず飛ばずで終了
その年のカープの一位がこの山崎隆造です
カープは良かったですね >>3
隆造コール始まる前に、大石大二郎への大ちゃーんコールは既にやってた >>14
あと思い出すのは鉾田1高の戸田
アイツこそプロ向きだったのに 地元出身で高校時代に甲子園で優勝を経験し
1位で地元チームに入団してそれ相当に活躍したのに
すげー地味な人物 >>1
息の長い選手というイメージがあったが若い時分
から抜擢されてたからそう感じただけで現役生活
はそこまで長くもなかった
1988年・89年と全試合出場したにも関わらず成績
はボロボロだったが1990年に復調し1991年は優勝
にも貢献した
しかし翌々年レギュラー陥落しチームも最下位に
終わると現役を退いた
まだ35歳だった 昭和59年日本一メンバー
6高橋 放出
9山崎 普通に引退
3小早川 放出
7山本 普通に引退、後の監督
5衣笠 普通に引退、監督コーチなし
8長島 放出
4アイルランド 外国人
2達川 普通に引退、後の監督
1山根 放出 >>14
その黒田真司と山崎は崇徳高校(3年春にセンバツ優勝)の同期。 >>25
衣笠ってレジェンドなのに監督してないの?
江夏みたいにやらかした? 山崎 樽岡 小川 永田 くぎや 応武 カネミツ 黒田 和気
全員は思い出せない >>28
あと小川達明と早稲田の監督だった應武篤良 中学の時に顔が似てるからあだ名が阿南監督の同級生がいた 阿南監督へのヤジw
「あんあん!あんあん!のんのはどこ行った!」 >>25
カープは1982年オフに水谷実雄を放出(この年の
打率リーグ8位)してるくらいだからなあ
なお交換要員の加藤秀司はメチャクチャで一年で
お払い箱にされるが翌年ルーキーの小早川毅彦
が長内孝との競争に打ち勝って優勝に貢献 衣笠さんがフロント入れなかったのは人種差別が少なからずあったと聞いたんだけどホントかなぁ?
私が衣笠さんの父親がアフリカ系アメリカ人だと知ったのは亡くなられてから
なるほどJAZZが好きだったりメジャーリーグに詳しかったりしたのはハーフだからだったんだと後から気づいた >>3
そのリューゾーコールは阪急の南牟礼豊蔵のトヨゾーコールのパクリなわけだが 広島は東亜の川島を大成させられなかったクソ球団
広島は国学院久我山の河内を大成させられなかったクソ球団 足のある高橋慶彦にスイッチ転向させたルーツ。それを踏襲し山崎にも。
ル―ツ野球=古葉野球かといえばそれも違う。古葉は野村克也の薫陶受け
てたから。弱者がどうやって強者に勝つかを考え抜いてた。 >>40
引退時にオーナーに無断で就職先を決めてしまったから
本当かどうかはわからんが 衣笠は講演の方が稼げると踏んだんじゃないかな?
引退の翌年、講演観に行ったよ。高校総出で。あの講演料誰が払ったのかな?w
市か県だろうね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています