【野球】野村克也を作り上げた辛抱と郷土愛
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2020年03月01日 11時00分
https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1756659/
野村克也が南海ホークスに入団出来たのは峰山高校の野球部長清水義一先生が南海の人情監督鶴岡一人に手紙を出したのに始まる。
「うちに健気な生徒がいます。見てやって頂けないでしょうか」。
ホロリと心打たれた鶴岡は昭和28年夏、京都府大会を見に行った。暑い日だったと聞く。
「カベ(ブルペン捕手)ぐらいにいいかも知れぬ」。テスト生扱いで昭和29年に入団。背番号60。
私が初めて彼を見たのは昭和30年春の後楽園球場での巨人南海オープン戦だった。
オープン戦は、テレビのギョーカイことばを借りると“テスト本番”である。よければ一軍に残り、ダメなら二軍落ち。
この無名選手の黒いバットがピカピカに光っていた。
左中間に三塁打を打った。右中間ではなく、左中間をライナーで破ったのにだ。懸命に走った。速かった。
野村克也は昭和10年6月29日、丹後ちりめんの町、京都府網野町で生まれた。
父要市は熊野郡の奥の坂谷の出で、網野町の食料品店に奉公。
年期があけて滋賀県出身のふみさんと結婚。網野町役場の前に屋号「野要」食料品の店を開いた。
店は繁盛していたが、日中戦争が始まり、召集令状が来た。「歓呼の声」に送られて出征。戦死した。野村は3歳。
ウソだ。かあちゃんがかしこうしておればとうちゃんが帰ってくるといった。わし、かしこうしとるに…」
残された家族の運命は苛酷だ。ふみさんが病に倒れる。病院に多額な治療費が残る。家を手放し6畳一間の間借り暮らし。
克也少年は小学校3年生になると仕事を見付けてくる。子守り、新聞配り。
冬、午前4時雪道を走って網野駅へ。待っていると一番列車から新聞の包みがほおり出される。
駅のベンチで仕分け。町に走って帰り雨戸にはさむ。中学生になった夏は海岸でアイスキャンディー売り。
野球雑誌を買って、見るのが何よりのたのしみだった。
中学をはやく卒業して京都室町の呉服問屋に丁稚奉公に行こうと決めていた。
ある日、2歳上の兄嘉明さんが「わし、就職が決まった。月5000円貰える。半分送ったげる。克也、峰山高校へ行け!」
昭和40年、野村が三冠王(戦後初、打率3割2分、42本塁打、110打点)になったその年の冬、私は網野町で、同級生、ちりめん工房の二代目、池部茂左衛門に会った。
二代目が岬に案内してくれた。海は急に荒れ出した。吼えるようだ。
「ぼーっとしとるように見えても克ちゃんの心にはこの日本海の荒波が生きていますよ」。
二代目はそのあと網野小学校に連れて行ってくれた。
「三冠王をとって帰って来た秋に克ちゃんは朝礼に引っぱり出されました。口下手なのでハラハラしとりましたら、よう言うてくれました。
“大阪の空はスモッグといって汚れた雲でまっ暗や。きれいな空と海にめぐまれた網野の子は幸福や。けどなあー、いまの世の中は辛抱や、辛抱や”…と」 =敬称略=
https://img.tokyo-sports.co.jp/wp-content/uploads/2020/03/7996c94d29339e21eb068a8af68b05a6.jpg
黙々とバットを振る野村克也氏(65年2月の南海キャンプ) 「パラサイト」アカデミー賞でスピーチ サムスン創業者の孫娘がブーイングされた理由
#パラサイト #イミギョン #週刊文春 https://bunshun.jp/articles/-/35895 でも野村記念館は無いんでしょう?
というか、展示品はどこかの倉庫に放置されたままなんでしょう? 郷土愛を語る人ほど郷土から愛されていないんだよな (´・ω・`) 何の本か忘れたけど困ったときに野村家族を助けなかったのに有名になったらちやほやして複雑だったとか書いてた気がす 鶴岡監督に教師が見にきてくれ、と手紙送ったと言う話は初めて聞いた。 小学生の時に弱い女の子の弁当かおやつを恐喝して奪って食べたとかの逸話なかったか… >>11
俺もそれ初めて聞いたなあ
教師が入団テストの話を通してくれたってのは野村も書いてたけど
鶴岡のことを人情監督とかw 2/12
追悼・野村克也! 1956年2月ハワイ 大打者が誕生した瞬間
小さなチャンスをものにして、大打者に上り詰めた野村克也。チャンスを与えた鶴岡一人!
https://friday.kodansha.co.jp/article/95893
野村がいた峰山高校野球部の部長はこの年の夏の予選前に南海の鶴岡一人に手紙を書き、
「わが校に一人だけプロでやれそうなタマゴがいる、ぜひ見てほしい」と依頼した。
鶴岡一人は富永嘉郎スカウトを伴って、西京極球場で行われた甲子園の予選で峰山高校の試合を見た。
試合は0-6で洛陽高校に敗れたが、試合後、野球部の部長と面会した鶴岡は「とりあえずテストを受けさせてください、
受けさえすれば合格させますから」と言った。
野村自身はテストに合格して這い上がったといっているが、鶴岡の述懐によれば、テストの合格は最初から決まっていたのだ。 そもそも最初から1年でクビにするつもりでカベを何人も入れたんだろ
ろくに練習もさせないまま雑用だけさせてクビ宣告したみたいだし
まともな飯も出てこない寮費が4000円、バット1000円で月給7000円の奴隷だろたしか >>17
テストの適当さも、なんで合格したかも野村自身が書いてる
なにしろボールの投げ方というか握り方すら知らなかったらしいし 前妻との結婚は、妻の両親と共に鶴岡も反対してたという
反対を押して結婚したのに不倫離婚した挙句、
現場介入サッチーを擁護して切られ、
切られたのは鶴岡の責任だと逆恨み
葬式にも出なかった
拾ってくれた恩義からしたら考えられない判断だった
働いて学費を払ってくれた実兄とも、離婚を咎められて絶縁してしまった
網野町にはほとんど戻って来なかったという
故郷に戻らなかったことは貧しい時代があったから分からんでもないが、
親の墓参りにも来なかったそうだ
野村もサッチーも過去を切り捨てて前進した者である >>21
野村って鶴岡恨みすぎだよなぁ
蔭山の件だって鶴岡のせいだって思ってる感じあるよな まあ、ひねくれ者だったおかげで歴史に名を残す名士になれたのだから、
塞翁が馬だよ。 去年の爆報フライデーで墓参りの映像出てた
親の墓を目の当たりにしたくないんだと思うよ。
心には生きてるんでしょ。
若い時あの周辺の中学校に講演会に行ってその後グランドで
野球部に打撃ホームを指導したり筋が良い子に
離れた 甲子園出場最多の高校に推薦とか貢献してたよノムさん。 阪神・糸井が中学か高校の体育の先生で恩師の孫だから、郷土の誇りと言って糸井がハムで投手だったときから可愛がってたよ。 >>11
繰り返し野村が語ってるめちゃめちゃ有名な話だが。
鶴岡が取るのを決めたのも手紙で母子家庭で頑張ってるという事情を知ったから。 >>23
鶴岡監督が辞任すると言う話が出た時に皆が親分を引き留めよう
と言い出しキャプテンだったノムさんも渋々鶴岡監督の家に行った
そうだがそこで鶴岡監督に「何が三冠王だ笑わせるな真に南海に
貢献したのは杉浦だけだ」と怒鳴られてノムさんによればその瞬間に
何かがプツンと切れたとか毎日毎日チームの事を考えて野球をしてたのに
そんな評価しかされてなかったのかと愕然としたとか
それまでも正月の挨拶に行っても他の子分と呼ばれてた選手たちは
奥で飲んでたのにノムさんは「上がって行けよ」とも言われずに
すごすご帰って来たりと明らかに鶴岡監督に嫌われてるなと思ってたそうだが
その「何が三冠王だ」発言でノムさんは鶴岡さんを決定的に嫌いになったとか
ただもちろん鶴岡さんの葬儀には行かなかったが杉浦忠の葬儀にも行かずに
大沢親分が激怒してたなまあバッテリーを組んでいても色々な感情が
あったんだろうな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています