【野球】恩師・野村克也さんの指導に反発し続けた門田博光氏の思い
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1969年、野村克也さんが選手兼任監督を務めていた南海にドラフト2位で入団したのが、後に40歳で本塁打王・打点王のタイトルを獲得し、「不惑の大砲」と呼ばれる門田博光氏(72)だ。1年目から開幕2番ライトで起用され、2年目は3番ライトでレギュラーに定着。その年に打率3割、31本塁打、120打点を記録して打点王を獲得した。新人時代から野村さんの薫陶を受けた門田氏だが、「当時は怒鳴られてばかりでした」と振り返る。
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野村さんが亡くなる日が来るなんて、想像もできませんでした。カネさん(金田正一さん)もそうですが、あの時代の人はスーパーマンみたいなイメージですからね……。
野村さんはよく、江本(孟紀)、門田(博光)、江夏(豊)の3人の名前を挙げて「南海の3悪人」と言っていましたが、ボク以外の2人はピッチャーで、叱られることはなかった。バッターのボクは本当によく怒鳴られましたよ。
ボクが南海に入団した当時は、今の選手たちのように何度もチャンスを与えられることはありませんでした。1年目の時に野村さんから「スイングは速いから、1回だけチャンスをやるわ」と言われたことをよく覚えています。「1回だけですか?」と聞き返したら、即座に「1回だけや」と返された。
それで開幕から2番ライトのスタメンで使ってもらって、それなりのペースで打っていたんですが、走塁が下手で帰塁した時に肩を脱臼してしまったんです。1か月半ほど離脱しなくてはならず、1年を通して活躍はできませんでした。そうして2年目を迎えたボクに、野村さんは「2回目やけど、もう1回だけチャンスをやるわ。これでアカンかったら悪いけど社会人野球に戻ってくれるか」と言うわけです。
その2年目にそこそこの成績(打点王のタイトルを獲得)を残せたことで、3番ライトで使ってもらえるようになりました。野村さんは当初、ボクを2番バッターに育てたかったようで、1年目はブレイザー・ヘッドコーチからマンツーマンでバントの指導を受けましたが、それまでのボクの野球人生にバントなんてなかった。1週間が過ぎたところで、ブレイザーが「オーノー、ギブアップ」と叫んだんです。当時は英語がわからんかったが、どうやら降参したらしいというのはわかりました(苦笑)。
その後、小細工のいらない3番で使ってもらえたわけですが、4番は野村さんですから、一発狙いではなく塁に出ることを最優先に考えるよう指導されました。野村さんから直々に「大振りをやめろ」と怒られたり、「ヒット狙いなら打率4割も狙えるぞ」と持ち上げられたりもしました。
野村さんは自分以外の一流選手を通じた指導で、ボクに大振りをやめさせようとしたこともありましたね。巨人とのオープン戦の時に王(貞治)さんのところに連れて行かれて、「ヒットの延長がホームラン」というアドバイスを受けたし、オールスターの時は東映の大杉(勝男)さんから「オレは強振していない」と指導されました。
それでもボクは「ホームランの打ち損ねがヒット」という考えを貫いた。考えを改めるどころか、逆に、野村さんと王さんから説得されたことで、この2人の通算本塁打の記録に割って入ってやろうと考えるようになったのです(門田氏の通算567本塁打は王氏、野村氏に次ぐ歴代3位)。
そんな経緯があるので、とにかく野村さんには怒鳴られてばかりでした。阪急・山田久志のアンダースローから浮き上がってくる球をアッパースイングしていると、ネクストバッターズサークルから「上からかぶせんかい!」と野村さんの怒声が飛んできた。野村さんの野球理論に対して、素直に縦に首を振らなかったから、「3悪人」の一人に挙げられたのでしょうね。
2/28(金) 16:00 Yahoo!ニュース 16
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200228-00000017-pseven-spo
https://i.imgur.com/eKYHnbm.jpg
https://i.imgur.com/Ckq3kXG.jpg もちろん、ボクも何も考えずに大振りしていたわけじゃありません。2年目に打点王を獲り、ホームランも31本打ちましたが、当時、1〜2年目の選手にはピッチャーが真っすぐしか投げてこなかった。3年目からは、カーブやシュートを投げられて苦労しました。ヒットは打てたが、ホームランは激減(14本)。ある意味、野村さんの理論は正しかったわけです。それでも、体が小さいボクは振るしかなかった。
そのなかで、野村さんから学んだことはたくさんあります。ボクの打撃フォームは、野村さんを参考にしたものですから。南海には手本となる左バッターがいないと悩んでいた時に、凡打してベンチに戻って鏡を見たら、打席に左バッターが立っている。鏡に(右バッターの)野村さんの姿が映っていたんです。“これや!”と思って、それからは素振りをする野村さんを鏡越しに見て、密かに参考にして練習しましたね。多少、自分の体格に合うように調整はしましたが、野村さんはボクの最高の手本でした。 板東英二がネタになるまではゆで卵といえば門田だったよな 野村(歴代本塁打2位)vs門田(歴代本塁打3位)のエピソード
当時の南海には門田の手本になるような左打者がおらず、そのことで悩んでいたが、ある日凡退したあとベンチの隅にある鏡の前の水道で手を洗ってふと鏡を見ると、次打者の野村克也が反転して左打者として映っていた。
それ以来、門田は手を洗う格好をして「鏡の中の左打者」である野村の打撃フォームを熱心に観察・研究した。野村に話すと「参考になったやろ」と威張られるに決まっているからという理由で、門田は絶対にそのことは野村には言わなかったという。 身長170cmしかないんだよねこの人意外にも
ブーマーで肩脱臼した人のイメージだけど40歳超えてもホームラン量産してた人 プロ晩年しか知らないけど当たればホームランってイメージだわ コーチ経験すらないのは人望のないのがネックなんかね 野球界とファンに愛されたノムさん
野球界とファンに無視されてる門田
そこの差だろうな 確かに門田は「遠くに飛ばすことしか考えてない」と自分で公言してたからなあ >>25
その考えであの打ち方で打率3割超えとか凄いけどな 門田さんは生まれるのがあと10年遅ければ、お金もいっぱい稼げたのにね >>1
>もう1回だけチャンスをやるわ。これでアカンかったら悪いけど社会人野球に戻ってくれるか」と言うわけです。
これはあり得ない。
当時は一度プロ入りしたら二度と社会人野球には戻れない制度 小野ギブアップって言ってんだろ
そんくらいわかるわ >>1
野村克也は「3番打者の富田勝」とか言ってたけど
トレードの前年ですらほとんど3番は打ってない
憎悪する富田さえ干せるなら誰を使っても良かった
のだろう 1975年オフに沙知代の現場介入に選手を代表して
抗議した江本孟紀と西岡三四郎は粛清トレード
野村克也は門田博光もトレードするつもりだったが
さすがにオーナーの川勝傅が反対してお流れ
まあ真性のクズですよ野村克也は 5大鉄板プレー
ブーマー門田
宇野のエラー
清原のジャンピングニー
パ・リーグの外野の客 歴代本塁打数3位が3番バッター、歴代本塁打数2位が4番バッター
ON並みか上レベルのコンビやったんやな
しかしこのコンビ時代は阪急全盛で、優勝したの昭和48の1回ぐらいかな? >>21
王、野村、門田
NPBホームラン数トップ3は皆180センチ以下 門田は阪急の指名を蹴って南海、加藤秀司は南海の指名を蹴って
阪急に入団したんだよな > その2年目にそこそこの成績(打点王のタイトルを獲得)を残せたことで、
さりげなく自慢してるな 意外と身長が低かったんだね
今でいうと森みたいなもんか mixiが流行った頃にこの人がアカウント持ってて、素人と丁寧にやり取りしてて好きだったわ > 「ヒットの延長がホームラン」というアドバイスを受けた
> それでもボクは「ホームランの打ち損ねがヒット」という考えを貫いた。
どっちが正しいのか >>1
>「当時は怒鳴られてばかりでした」と振り返る。
典型的な無能監督だわ 昔の野球場は物凄く狭かった
今の選手なら、年150本位打っても不思議ないレベル 吉田正尚見ると若い頃の門田ってこんな感じかなあ
と思うんだよなあ >>37
サイズ至上主義の焼き豚なのになw
王177
野村175
門田170
小さいやんw 門田若い頃はすごく勘のいい外野手で守備もうまかったよ >>38
加藤秀司は今じゃまずないであろう3年連続指名
(大卒社会人ならドラフトのルール上は可能だが)
この時代だからしょうがないけど拒否者多すぎw
なお加藤が阪急に2位指名された年に門田博光は
阪急に12位指名
あと門田って加藤より学年1つ上なんだな 2年目のペーペーを天上人のような王や大杉に紹介して回るなんて良い人だな
ってことにはならないかw イチローなんかはホームランは狙わないと打てないみたいなこと言ってたような >>24
阪神ファンからは憎悪されてるし
楽天ファンからは無視されてる
野村を崇拝してるのはヤクルトファンぐらい >>1
ドームランって結局これだから、門田の言ってることは間違ってないよ >>58
それも土橋関根時代を知らないあほたれども 強振してバットを振り切るから、スタンドまでボールを押し込めるわけだ >>51
ドラフト始まって江川事件までの10年間
ドラフト指名し入団した選手は7割ぐらいになるんかな?
特に下位指名の拒否は、かなり多い
福本や下位指名で活躍した選手の話では、ろくに連絡さえなかったらしい ノムさんはギータのフルスイングもやめた方がいいって言ってたな ガッツについても礼儀正しさを評価しながらもフルスイングには否定的だったよ >>37
王とか野村の時代だと今より平均身長も低いでしょ 人によって指導法を変えてたのかもしれん
野村の言うことに反発するような人だからメンタル強いから
追い込んだり叱ったりして伸ばそうとしたとか? >>45
若いうちは、大抵の監督が怒鳴ってばっかりだよ
監督としての実績がないのもあって、選手になめられないように大声を出す
NBAの有名コーチ、フィル・ジャクソンもブルズ時代の最初は怒鳴りまくりで、ジョーダンと喧嘩してた
レイカーズの頃は、コービーとシャックが何をやっても笑顔の人格者になってた ホームランっていうかフライ打球のほうが統計的にヒットの割合が多い
でもヒットは低い打球のほうが出やすいというイメージだから
上から叩きつけるとかゴロ打球を打たせたいと指導者は思いがち >>71
結果を見れば
HR500本の大鵬を育てたw 若いっていうか当時のノムは南海の四番兼監督だから変なプレーされると選手としても監督としても実害があった上にまだ若かったから良くも悪くも後年より直情的で血の気が多かった
江夏や江本の証言見ると南海追放されてからもとからあった人間不信な気が一気に強くなって人格変わったらしい リアルだよな、あまりにリアルだ
当事者として長年接した門田には野村氏の真実の姿が見えている >>51
その頃ってプロ野球選手よりも大学の監督だったり、社会人の名門に入った方が
生涯賃金は多いって言われてたらしいからね 野球小僧の数年前のロングインタビューだと、門田はサッチーのことは嫌いではないらしい
ノムの家に行って、「あんたカレー食べる?」
とサッチー手製のカレーをご馳走になったこともあると
ノムがああいうタイプの女を好むのもわかると
ノムとも不仲でもなんでもない 1960年代〜70年代の週刊ベースボールのバックナンバーにも、
南海の御家騒動や混迷ぶりがよく記事になっていた。
あの状況で35歳で兼任監督とか、火中の栗に他ならない。 大阪球場に個室を持ち、そこにクーラーや冷蔵庫やソファーなど持ち込み、
ロッカーでなく試合前はそこでコーラをがぶ飲みして一人で過ごしていた門田さん >>77
鶴岡が南海退団、後任の蔭山が就任四日目で謎の急死、鶴岡が監督復帰するも、
南海を一度は見捨てたことや、多額の再契約金が長者番付でバレて求心力を失い三年しか続かず
その後の仏の徳さんこと飯田は人が良すぎて最下位
そんなタイミングで、鶴岡の子分の先輩を何人も追い抜いてノムが35才で兼任監督に
しかも、南海生え抜きは皆無のコーチ陣を組んで、鶴岡派からさらに睨まれる
阪神さながらのグダグダかつ煮詰まった人間関係ですな ノムと門田の話って、オープン戦で王にホームランを狙ってない、と門田に言わせる話
江夏なら、野球界に革命を起こそう
江本なら長髪を切らした話
稲尾なら発見したクセを杉浦にバラされた話
高津ならシンカーを覚えさせた話
いつも同じでいい加減飽きた門田もノムが亡くなったことだし
聞いたことない話しろよ >>58
お前らって弱くて幼稚でだらしない阪神の選手は憎悪しないのねw 野村の三千試合出場の試合で打席に入る門田が、
マスクをかぶるノムに挨拶
「監督おめでとうございます。今日は恩返しをさせて頂きます」
バックスクリーン直撃の大ホームラン >>74
福本豊が叩きつけるバッティングをやったらぶん殴った
西本幸雄は偉大だった ホームランの打ち損ないがヒットという門田の理論は
後のフライボール革命で科学的に証明されたのが驚異的 >>80
当時はノンプロがここまで没落するなんて誰も
考えてなかった 野村の選手操縦術
無視、賞賛、叱る
江夏、江本、門田が三悪人と語っているが、特に門田は絶対に誉めなかった
誉めるの一段上の叱るということで、彼の反骨心をあおったと語っている >>23
現役最後から糖尿病でヤバかった
目も霞む中本塁打量産していたのが凄過ぎる >>83
いやワンマンオーナーの川勝傅が野村克也を
寵愛してただけ
もし蔭山さんが存命でも無理やり解任してたと
思うわ 大豊にもホームランばっかり狙うな言ってたな
そして大豊も言うこと聞かなかったな >>87
さっきも書いたけど川勝傅の庇護下だからやりたい放題だよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています