白河第一国民学校高等科を卒業後、電電公社に電話交換手として就職。しかし、この仕事をしていた時にミスコンに出場し、「ミス白河」に抜擢され優勝した事をきっかけに
地元新聞に写真入りで紹介されているという。これを機に電話交換手の職を退職し、東京へと舞い戻り、しばらくは実家と音信不通の日々を送るようになる。その後
しばらくしてから、家族に手紙を送ったり、妹や弟を第一ホテルに呼び寄せては米兵からもらったチョコレートやコーラを与えたり、学費の援助もしていた。東京での
住まいや生活の子細などは家族に明かさなかったというが、弟の伊東信義によれば、沙知代の服装や化粧、持ち物、更にその収入を見ればパンパンをしていることは
明らかであり、米兵に肩を抱かれてホテルの周りを闊歩する沙知代に遭遇することもあったという。
1957年4月、米軍将校として来日していた東欧ユダヤ系アメリカ人のアルヴィン・エンゲルと結婚し、同年5月に長男・ダン、1959年2月に次男・ケニーを産んだ。
野村克也との出会い
1970年8月、南海ホークスの選手兼任監督であった野村克也は、18日から20日に後楽園球場で開催される対東映フライヤーズ戦のために上京。宿泊先の原宿のホテルに
程近い行きつけの高級中華料理店を訪れた際に、沙知代と相席になり一緒に食事を取りながら談笑した。これが二人の出会いであるという[4]。それからしばらくして
沙知代は克也と愛人関係になり、1972年頃には克也は本妻と別居状態になった。この時点では克也の婚姻関係のみならず、沙知代自身の婚姻関係も解消されて
いなかったことから、両者はダブル不倫の状態であった。