「もっと頑張ってやっときゃよかったなあ」

高校卒業後は、高いテクニックと視野の広さを買われて当時Jリーグで人気、実力でトップに立っていたヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)へ入団した。
2年目には94年のセカンドステージで出場機会をつかむとステージ優勝とチャンピオンシップ制覇に貢献。
だが、プロ入り後もピッチ内外で異端ぶりを発揮し、決勝ゴールを挙げた同ステージ第19節のG大阪(3-1で勝利)戦後のヒーローインタビューで
「僕を出したら優勝できるんで、よろしくお願いします」と発言したことが、大柄な態度だと物議を醸した。

当時の映像を見れば、インタビューを受けた石塚本人ではなく、状況をよく考えもせず質問をぶつけているインタビュアーにも問題がありそうだが、報道がひとり歩きし、何かと悪目立ちしてしまった。

「俺の仕事はしゃべる仕事ちゃうからね。まあ、あれは監督の松木(安太郎)さんに向けて『俺をもっと出してよ』って言った言葉だったんだけど。
(プロで)もっと頑張ってやっときゃよかったなあとは思うよ。でも当時のヴェルディはめっちゃカッコよかったし、入れたときはうれしくてね。
練習も楽しかった。だって、全員うまいんやからね。そやから、もう一皮剥けへんかったんかもしれへんけど……。

ラモス(瑠偉)とケンカしながら紅白戦をやったり、当時のヴェルディは試合前になると練習中にエキサイトして胸ぐらのつかみ合いになるとか、毎日ゾクゾクしてたわ。
プロでの思い出? 一番言うたら、練習初日に加藤久さんにあいさつないやんって怒られて(笑)。
ヴェルディではカズ(三浦知良)派、ラモス派、キーちゃん(北沢豪)派、哲さん(柱谷哲二)派って、鞄持ち制度があったけど、俺はどこにも属さず、誰とでも仲良くしとったな」

シーズンによって浮き沈みはあったし、その才能を思えば不完全燃焼だったと言えなくもない。
V川崎を中心にプロで11年。最後は川崎フロンターレ、名古屋グランパスにも所属したが、V川崎時代を超えるインパクトは残せず、29歳で現役を引退した。

「最後はね、子どもいたし、次に行くなら若いうち、まだ名前が残ってる間に次のことやる方がメリットあるかなって、早めにね。
それに、自分がうまくなくなったという思いもあったし、サッカーは草サッカーでもできるという思いもあったんよね」

引退後は同じく元Jリーガーの森敦彦(元横浜フリューゲルスなど)とアパレルブランド「WACKO MARIA」を立ち上げ、約7年間、国内ファッション業界で活躍した
2012年に家族とともにスペイン・バルセロナへ移住。現在は、当地で飲食店を経営するほか、実業家として第2の人生を歩んでいる。(敬称略)

石塚啓次(いしづか・けいじ)

1974年8月26日、京都府出身。京都・山城高3年時に冬の選手権で準優勝するも、ケガの影響もあって出場は決勝のみ。
184センチの恵まれた体躯に、テクニックと視野の広さを武器に天才肌のMFとして注目を集め、卒業後はヴェルディ川崎に加入。
2年目にはJリーグチャンピオンシップ優勝に貢献したほか、Jリーグ通算106試合15得点。
03年に川崎フロンターレ、名古屋グランパスに在籍し同年オフに引退。
その後はアパレルブランド代表を経て、2012年よりスペイン・バルセロナに移住。現地で新たなアパレルブランド「BUENA VISTA」を立ち上げたほか、
14年6月にうどん屋「YoI Yoi Gion 宵宵祇園」を開店し、自ら厨房に立っている。