「そりゃ、うれしいでしょ。決勝まで間近で見ながら出れへんかったわけだし。

確か準決勝くらいで監督に『記念で一回出るか?』って言われても、『出るわけないやろ』って感じやったけど、
決勝前にもう一度『出るか?』って言われたら、『ほな、出よか』みたいになって。
そんなに簡単に出るのもカッコ悪いってのがあったけど、決勝ならいいかみたいな(笑)。
ただ、スパイクもユニホームも持ってなくて兄貴に新幹線で持ってきてもらったんちゃうかな。
それで決勝に出たら、なぜか盛り上がってしまって。実際、足はすげえ痛かったけどね」

ピッチに出るときは「クールにせなあかんって、難しそうな顔してね(笑)」と当時を思い出す石塚だが、胸の内では、普通にいけば1回戦か2回戦で負けたであろう山城が、
エースの自分を欠いたことで団結し、まさかの快進撃を見せたことに「なんで?」という複雑な思いもあったという。

山城は初戦の郡山(福島)戦に8-0と快勝すると、2回戦で桐蔭学園(神奈川)、準々決勝では四日市中央工(三重)にいずれもPK戦で競り勝ち、
準決勝では名門・習志野(千葉)を2-1と退けるなど、強豪校を次々に連破し決勝まで駒を進めていた。

「それまで中心でやってた俺がいないのに、なんで勝ってんの? おかしいなって(笑)。
そこは面白くないわな。なんで勝つんだチクショウって。でも、短期決戦はノッたもん勝ち。それが、おもろいところなんやろうな」

ピッチ内外で際立った規格外のキャラ

山城は近年こそ目立った成績は残せていないが、過去の選手権で全国制覇1度、準優勝2度を誇る京都の古豪で、これまで多くのJリーガーを輩出してきた。
石塚が当時どんな部活生活を送っていたのかも気になるところだ。

「山城は京都の中心にあって、グラウンドも小さくてね。
そこにサッカー部のほか、野球部やラグビー部もあって、練習してても野球のボールがボンボン飛んでくるみたいな。
定時制もあったから、それまでに校門を出なきゃあかんって感じで練習は1時間くらいで(全国大会に出るような学校の中では)一番少ないんちゃう。朝練もなかったし。
そんななか、俺は練習中ずっーとボールの上に座ってたって、よう言われるわ(笑)。監督も、元々は実業団で選手だった先生やから、俺に理解があったというか、自由にやらせてくれた。

例えば土曜日に練習があって、日曜日に試合がある。
そしたら土曜の練習のあと、一度家に帰って次の日の荷物を用意して三条京阪駅のロッカーに入れて、朝までディスコ。
それで、日曜はそのままグラウンドに向かって試合の15分くらい前に着いて『やりますか』って試合に出ていたらしい。ほかのメンバーは試合の2時間くらい前からアップとか準備していたらしいけどな。
俺ももう忘れてもうてるからホンマかどうは分からんけど、そうらしいって言われるわ(笑)」

そんな状況でも監督やチームメートとの関係がうまく保たれていたというのは、石塚のどこか憎めないキャラクターがあったからだろうか。

「出れば活躍していたからね。これでも昔はサッカーがうまかった。部活をやめるとか言われたら面倒くさいだろうし。触らぬ神に祟りなし、かな(笑)。
ただ、普通の練習は嫌いやったけど、ボールを使った1対1とかミニゲームは大好きで、小さい頃からボール遊びだけはようやっていたのは間違いからね」

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