「浪速のロッキー」という愛称でプロボクサーとして活躍した後、1989年に自身の半生を絡ませた映画『どついたるねん』(阪本順治監督)で主役デビューを果たし、第35回キネマ旬報賞・新人男優賞をはじめ、多くの賞を受賞した赤井英和さん。

映画『119』(1994年)、連続テレビ小説『まんてん』(NHK)、『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』(TBS系)など映画、ドラマに多数出演し、バラエティー番組や舞台、CMでも活躍。近畿大学ボクシング部総監督という顔も持ち、1月10日(金)からは主演舞台『伯父の魔法使い』(本多劇場)も控えている赤井英和さんにインタビュー。

◆ケンカは友だちを作るため?

大阪・西成区で味噌漬物製造販売業を営む家に生まれた赤井さんは、小さい頃から家業を手伝っていたという。

「私が生まれ育ったのは1960年代、70年代に暴動があったりした今池という町なんですけれども、繁栄はしていました。

9つ上の姉と6つ上の兄がいて私は末っ子だったんですけど、小学生のときから子どもたちが家の仕事を手伝うのは当たり前だと思っていたので、夕方6時になったら店を閉める片付けを必ず手伝っていました。

だから、野球をやっていて自分に打順が回って来るというときでも時間になったら、『ほな帰るわ』という感じでした」

−かなり荒っぽいこともあったそうですね−

「荒っぽいですよ。暴力団も多かったですし、西成暴動というのがあって、目の前で機動隊と労働者が投石したり、機動隊が盾で応戦したり、いつも家の前を通っている顔見知りのおっちゃんがやられて頭から血を流したりしていて、それを震えながら見ているような子ども時代でした」

−そんなお子さんだった赤井さんがケンカをするようになったのは?−

「中学に入ってからです。私は越境入学で小学校に行っていたんですけど、ちょうど中学に入るときに越境入学に厳しくなって小学校の仲間たちが行く中学校には行けなくなってしまったんです。

それで地元にある中学に入らなければいけなくなって、通っていた小学校からは私1人だけで、あとはみんな知らない人ばかりです。友だちもいない。

それで入学したときに『どうやったら友だちができるんだろう?』って自問自答したなかで『ケンカをすることが友だちを作る方法じゃないか。それがコミュニケーションちゃうか?』というふうに自分なりに答えを出しまして(笑)。

小学校のときから地元の西成警察の少年柔道教室に習いに行ったりとかしていたので腕っぷしには自信がありました。

私以外は同じ小学校から集まる中学校でしたから、みんなは友だちだけど、俺のことは知らん。『あいつ誰や?』ってことになっているなかで、ちょっと生意気なやつがいて(笑)。

今も友だちなんですけど、そいつとどつき合ったのが生まれて初めてのケンカでした。

だけど、腕力には自信がありましたし、柔道や空手道場に行っていたので取っ組み合いはわかっている。

それで、入学式のときにそいつと殴り合いをやって倒したから、『あいつは金塚小学校から来た赤井英和や』って注目されるようになって(笑)。

子どものときには目線が低いから、ほんのちょっとしか見えてないんですよね。それから50年近く経って、目線が高くなった分、世の中には怖い人、強い人がいっぱいいてるということがわかって、自分がほんまにちっこいものだということがわかるんですけれども、その頃は見えている範囲だけで、『俺は強いんや』っていう風に勘違いというか、そう思ってしまいまして…。

でも、弱い者いじめは大嫌いやから近くの中学に行って、『お前のところでケンカの強いやつを出せ。俺は今中の赤井や』って言って、殴りに行ったりとかいうようなこともやっていた子ども時代でした(笑)。今とは時代が違いましたからね」

−大阪一帯で赤井さんの名前は知られていたそうですね−

「まあまあ、そうですね。そんな中学時代で、高校に入ったらもっと範囲が広くなります。電車通学になります。色々と私なりに考えたなかで、電車通学するとひとつの車両に、色んな学校の生徒がいて移動するじゃないですか。電車のなかでケンカをしたらもっともっと名前が広まるぞと思って(笑)。

以下ソース先で

1/8(水) 7:02
テレ朝POST
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200108-00010000-asapostv-ent&;p=1
https://lpt.c.yimg.jp/amd/20200108-00010000-asapostv-000-view.jpg