【野球】イチロー登場前の球界を代表する“平成最初の安打製造機”パチョレック(大洋-阪神)/698試合 .315 86本 431打点
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【プロ野球死亡遊戯】平成助っ人賛歌
年俸わずか2600万円の格安助っ人
1988年(昭和63年)10月29日、セガ・エンタープライゼスの『メガドライブ』が世に出た。
ボイヤー、シピン、ミヤーン、レオン、ポンセ、パチョレック、レイノルズ&ブラッグス「大洋から横浜、低迷期を彩った助っ人の系譜」/プロ野球20世紀の男たち
ついにファミコンの8ビットゲーム機から、16ビットマシンの時代へ。
漆黒のボディで金色に輝く「16-BIT」の文字は未来そのものだった。
……しかし、今年夏に発売された『メガドライブミニ』収録の本体同時発売ソフト『スペースハリアー2』で遊んでみたら驚愕の難易度である。
キャラ移動中に木にぶつかっただけで即死のめちゃくちゃシビアなゲームバランスから、当時の子どもたちは社会の理不尽さを学んだものだ。
時はバブル絶頂期、ジャンプコミックス『こち亀』63巻では「東京土地なし派出所の巻」にて都心の地価高騰のあおりで立ち退きを迫られる派出所の様子を描いている。
そんなバブルマネーで潤っていた日本にひとりの無名の外国人野球選手が来日する。
ただ、当時流行りの有名絵画を買うように現役バリバリの大物大リーガーを連れてきたわけじゃない。
メジャー通算23安打、2本塁打とほとんど実績のないマイナー・リーガーである。
横浜大洋ホエールズと契約したジム・パチョレック、年俸はわずか2600万円の格安助っ人だ。
日米大学野球では全米四番を務めたこともあり、ポーランド系の血を引く精悍な顔立ちに身長190センチ、93キロの立派な体躯で、
スーパーマリオ似のカルロス・ポンセと並ぶ大砲候補と思いきや、キャンプから非力さを指摘され、
評論家からは「バットが出にくそうなクラウチングスタイルの打法は日本で通用しない」なんてダメ出しを食らう日々。
27歳の若くしての来日について、パチョレックは『週刊ベースボール』の直撃インタビューにこんな言葉を残している。
「若いのに、というかもしれないが、若いからこそ、いろいろなことを経験してみたくて日本に来た。
それに3Aでの待遇よりも、日本で働いたほうがずっといい生活ができるからね」
おおっ、転職時の面接で思わずパクりたくなる若者らしい前向きな発言である。
5人兄弟の末っ子で、兄のジョンやトムは元大リーガーだ。そんな古き良きアメリカを象徴するかのような野球一家に育ち、
パチョレックは3A時代にチーム最高の年間62四球、チーム2位の出塁率.397をマーク。
外野に一塁と三塁を守れる便利屋のような立ち位置で、本塁打こそ毎年1ケタだったが、
右への流し打ちやボールに食らいついていく姿勢とガッツあふれるプレーを大洋の牛込惟浩渉外担当に評価された。
すると昭和最後のシーズンとなった88年の来日1年目から、度々打撃フォームを日本人投手用に変える研究熱心さを発揮し、
正田耕三(広島)や篠塚利夫(巨人)と首位打者を争う活躍を見せる。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191120-00000003-baseballo-base
11/20(水) 11:02配信
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/show_img.php
https://i.ytimg.com/vi/eXOJ67CnvdU/hqdefault.jpg
https://i.ytimg.com/vi/Dhz_T6MEJio/hqdefault.jpg
https://i.ytimg.com/vi/0azL7G6Ws0E/hqdefault.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=hVZn_O2M4F8
大洋・マイヤー、パチョレック連続ホームラン
https://www.youtube.com/watch?v=0azL7G6Ws0E
阪神−ヤクルト 亀山努の復帰第1号ホームランとパチョレックのサヨナラタイムリー
https://www.youtube.com/watch?v=D3EE6EsGvrY
阪神 パチョレック
http://npb.jp/bis/players/21523866.html
成績 2年連続リーグ打率2位
私生活では二人の息子にも恵まれた良きパパで、横浜スタジアムでのナイター前は大好物のラーメンを食べると試合直前まで誰もいないブルペンで横になりリラックス。
それがいざゲームとなると炎のファイターへと変貌する。
甲子園での阪神戦では、レフト守備時に自チームのセンター屋鋪要と激しく激突して途中退場も翌日のゲームはスタメン志願で3打数2安打。
これには対戦相手の村山実監督も「あの闘志をウチの選手にも見習わせなきゃいかん」と脱帽した(この年の阪神はランディ・バースの途中退団や掛布雅之の引退もあり、
首位中日と29.5ゲーム差の最下位)。
大洋は4位に終わるが、パチョレックは最終的にリーグ2位の打率.332(165安打はセ最多)、17本塁打、76打点で外野部門のベストナインに選出され、
ホームランと打点の二冠に輝いた同僚のポンセと組むクリーンアップは、球界屈指の助っ人コンビ・ゴールデンアックスと称賛された。
2年目の89年も背番号14の“平成最初の安打製造機”は、打率.333と2年連続リーグ2位となるハイアベレージをマーク。
しかし、大洋は首位巨人にプロ野球記録の18連敗を喫するなど勝率3割台で借金33のぶっちぎりの最下位に沈み、チーム本塁打76は12球団最少。
こうなると、いくら高打率でも助っ人にしてはホームランが少なくて物足りないという声が聞こえてくるようになる。
ウォーレン・クロマティ(巨人)や落合博満(中日)といった強打者たちと毎年首位打者争いをしながらも、
今より一軍外国人枠も少ない当時の外国人スラッガーに求められていたのはあくまで長打だった。
本人もそれを強く意識していたようで、3年目の90年春季キャンプでは休日も宿舎近くのスポーツクラブに通い、ウエートトレーニングでパワーアップに励む姿が度々目撃されている。
そうパッキーは真面目だった。いつ何時も最後まであきらめず手を抜かない。90年8月4日の中日戦(横浜スタジアム)では、5対5のまま延長に入り、
午後10時半には未成年者に帰宅を促すアナウンスが流れ、スクリーンには最終電車の時刻が映し出される。
この年の開幕2日前に正式決定した「延長は15回まで、引き分けは再試合」という選手にはハードな超ガチンコルールのため、
試合はひたすら続き延長15回裏、決着をつけるサヨナラ打を放ったのはパチョレックだった。
『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』によると、日付は変わり午前0時11分、最後までスタンドにいた観客は7198人だという。
なおこの年の両チームの試合は事件が多く、9月11日のナゴヤ球場では試合前のシートノック中にスコアボード右の照明塔付近から小火が発生。
外野席の観客が一時グラウンドに避難して、一部のファンが中日ベンチになだれこむ騒ぎもあった。 “PKO問題”によって……
そんな中でパチョレックは90年にキャリアハイの172安打を放ち、打率.326で自身初の首位打者を獲得。
チーム7年ぶりのAクラスの原動力となる。91年も打率.310、11本塁打、75打点と4年連続3割を達成したが、ついにホームランの少なさを理由に解雇、形的には金銭トレードで同リーグの阪神に放出されてしまう。
翌92年、パッキーは9300万円と実績のわりに低めの年俸や古巣大洋への不満を口にすることもなく、黙々と新天地で調整に励む。
これには中村勝広監督も「あれだけ真面目にやってくれるとは……。ホントに頭が下がるよ」なんてべた惚れ。
するとトーマス・オマリーとともに“OP砲”と呼ばれ、亀山努や新庄剛志といった若手とも噛み合い優勝まであと一歩の猛虎フィーバーを巻き起こす。
リーグ最多の159安打に打率.311のヒットマシンに加え、自己最多の22本塁打、88打点を記録。
やはり、こうしてあらためて数字を振り返ると超優良助っ人である。
93年はパチョレックとオマリーと郭李建夫の外国人枠争い(当時の一軍登録は2人まで)が社会問題だった国連平和維持活動と絡め、
阪神の“PKO問題”と呼ばれ注目を集めたが(同年のザ・ブルーハーツのツアータイトル名も「PKO TOUR」)、
結果的にこの争いがパッキーに無理をさせることになってしまう。
5月には腰痛の治療のため一時帰国。ファーム調整後に一軍復帰するも、打率.243、7本塁打、36打点と精彩を欠き、
8月28日に三好一彦球団社長に「体力の限界」と自ら退団を申し入れた。
この年のオールスターファン投票1位で選出される人気を誇り、通算打率.315を残した33歳のヒットメーカーのあっけない退団劇に周囲は驚いたが、
動体視力の低下や、腰の痛み止めの薬で胃も痛め微熱にも悩まされるなど満身創痍の状態だったという。
その2日後、8月30日には早くも離日。26年前の週べ「惜別球人」記事によると、急な帰国にもかかわらず大阪国際空港には大勢のファンがお別れに駆け付けた。
「パッキー、ありがとう」「さようなら、パッキー」というファンの大声援に、「こんなに多くの人に見送ってもらえるとは……」と目を潤ませるパチョレック。
5年前、わずか2600万円の年俸でひっそりと来日した男は、約1000人ものファンに見送られ日本でのプロ野球生活に別れを告げたのである。
https://www.youtube.com/watch?v=1bicxZXun98
パチョレック 横浜スタジアムで始球式 2004年
https://www.youtube.com/watch?v=Tiz6ES0f5Vo
懐かしの名曲 パチョレックヒッティングマーチ パチョレックは確かに安定してる奴だったなあ。
オマリーのケツ拭き役だったような。 安打数なんて誰も気にしてなかったのにゴキローが記者を焼肉で懐柔して崇高なものであるかのように報じさせたんだよなwww こういう年寄り向けの懐古記事はスレ立て自粛しろよ
毎度全然伸びないし、そもそもニュースじゃないだろ 鈴木なんざ比べもんにならんぐらい
ピートローズのがスゲーのは当然なのに
当時ローズが正論を述べた時のチョッパリどもの反応がキモすぎたな
「日本人は世界1!」「日本人のがすごい!」を時でいくキチガイっぷりだった 今だったら年棒5億+出来高で優良外国人扱いだったな
今はこんな外人いないんかね 懐かしいな
ブラックスとかローズとか横浜は外人の当たりが多いイメージ >>7
塁打数だとボヤけるだけだぞ
例:
96 松井 塁打303 安打153 本塁打38 打率.314 OPS1.023
94 イチロー .塁打300 安打210 本塁打13 打率.385 OPS0.994 PKO
当時一部で巨人のピッチャーKOとも言われてたが、当然阪神の方がインパクトが強かった 一文字表記にするとき、なぜ阪神は神で大洋は洋なの? >>23
阪神は阪急、大洋は大毎と区別してた名残じゃないんか パチョレックの顔を思い出そうとしたらセイン・カミュが出てきた… 当時はポンセ派とパチョレック派で血の抗争が繰り広げられてたな >>5
その古臭いやり方に見飽きたコピペ
お前自身だよなあ >>27
クールボー .278 22本
グレン .256 23本
クールボーなんて今なら泣いて喜ぶな
2人とも2年目にまるでダメになっちゃったのはなんだったんだろうなあ パチョレックといえば、俺的には阪神でオマリーとコンビというより、
大洋でポンセとコンビの印象がずっと強いけど。 >>40
みんなそうだろ
強打者とアベレージヒッターでいいコンビだよな
ランスとアレンとか なんだ、パチョレックが死んだのかと思ったわ。唐突にスレ立ってさ。 メジャーで通用しないレベルでも日本ならタイトルレベルの可能性あるし
外国人枠を野手4人、投手3人ぐらいまで拡大してほしい >>8
だから古葉竹識は一切評価してない
アイツが大洋で育てた選手は誰ひとり居ないし
良かったのはカープから引き抜いてきたスカウトが
有能で古葉が居なくなってからチームが強化された
ってことだけ >>3
代わりにやってきたラリー・シーツが打率.308本塁打26本
100打点(打点王)だからな
阪神が得した話であって大洋が損した話ではない この頃の野球は好きだったよ
今は見る価値もないけどな 1H亀山
2C和田
3Dオマリー
4Fパチョレック
5B岡田
6G新庄
7E久慈
8A山田
9@仲田 >>40,>42
実質2年(厳密には3年だが)しか一緒にやってない
んだけどね
1989年にポンセが急激に衰えて翌年マイヤー獲得
ポンセは二軍でも低迷しそのまま解雇
マイヤーは走れない守れないだったので1年で解雇
され大物RJレイノルズを獲得するが2人で26本塁打
という結果に終わったためパチョレックが解雇された >>48
投手を見る目があったら暗黒時代はなかったのに 横浜はポンセ、パチョレックの後シーツ、ローズ、ブラッグス、ウッズと良かったのにそのあとはソトまでゴミばっかりなんだよな
お古のブランコ、ラミレス、ロペスは良かったけど 阪神の外国人選手を挙げろと言われて
迷わずバース、オマリー、パチョレックと答えた石川梨華はモノホン ガチのホエールやったけど遠藤のホームですら勝てないんやで?
駒田にヤジったら山崎一家ラッパのオッサンに吉野家弁当おごってもらった良い思い出。。 まあこれ系でスゲーと思ったのは
グウィンやな
あいつはスゲー
>>58
ドスターズーバー
サンダースグラン
ヤング
コックス
ウィット
ジェイジェイビグビー
ジョンソン
カスティーヨ
かな バッターは阪神の助っ人よりマシだったんだよ
問題は投手の当たりがほとんどなかったこと >>48
そうか?
レオンはロッテの人だし
ボンセとパチョレックは当たりとしても
マイヤーとかレスカーノとかローマンとかホワイトとかハズレも多いぞ
レイノルズはそもそもメージャーバリバリだったし >>60
1990年以降オールスターのファン投票で選ばれた選手を挙げよと言われて、新庄・亀山・オマリー・パチョレックを正解したんだよ むしろバース、キーオ、フィルダー、オマリー
とこっちの方が当たりが多い気がするが
パリッシュにパチョレックと
85年から92年まででハズレはウインとジョーンズぐらいだろ 大洋のスーパーカートリオからのパチョレックなんだよ >>13
ピートローズは朝鮮人の嫁貰って、球界追放されて、娘や息子も超絶ブサイクって可哀想な人生だよな。
朝鮮人を身内にするなんて、自ずと不幸を背負い込むだけだわな。 チャチャチャ、ポーンセ、チャチャチャ、ポーンセ、チャーララララララー アドゥチって途中から入ってきたのもいたな
いかんせん地味だった 日本の野球は今も昔も低レベルだったんだな
無名外人もタイトル獲得できる アドゥチ(ジミー)を知らないニワカがパッキーを語るとかw パッキーは大洋の歴代外人打者に例えれば
タイプ的にはラムやトレーシーの系列だったな
個人的にはラリーシーツの打撃技術には度肝を抜かれたな
インロー膝下のボール球を、
浜スタライトスタンドの中段まで運んでたからな ポンセパチョが居て大遠藤も居たのに4位の大洋てなんなん? >>82
決定的にピッチャーが足りんよ
遠藤、斎藤ときて次に来るのが新浦、欠端、大門じゃ話にならんよ
あと選手が一丸となってなくて勝ち方を知らなかった
だから接戦を死ぬほど落としてた パチョレックの顔思いだそうとしたら映画「ゴーストニューヨークの幻」の男優を思い出したよ >>84
おお欠端懐かしい。
まぁファミスタでは強かったかな。 ラーメン好きだったのか
この当時はまだ鶏ガラで薄めに薄めた残念なスープが
主流だっただろうにな
お年寄りにはあのくらいがいいんだけど パチョレックが転けなかったらヤクルトの優勝は無かったかもしれない >>68
逆に阪神は打者ゴミ投手当たり
まあパークファクター起因の問題もあるのかも知れん パチョレック「阪神と大洋なら大洋が好き。神戸は住みにくい」
ドンブレイザー「関西人より野蛮な人間は見たことない」
マートン「関西人がヤバいから神戸に家族呼べない」
イチロー「神戸は最高!」
イニエスタ「素晴らしい国。特に神戸奈良は最高」
ビジャ「神戸の生活を楽しんでいる」
この差はいったい、、、 >>91
当時の大洋なんてエースが近所の女の子いたずらしまくっても顔ばれしなかったくらい誰も興味なかったからな ファミスタでスーパーカートリオのあとのパチョレックポンセの流れがめちゃ美しかったわ
最高の打順じゃないか
下位打線はちょいインパクト薄かったけど あの当時の太洋の選手は潜在能力では
ピカイチだった。
大門 欠端 松本 相川 中山なんて
20勝してもおかしくないくらいの
球を放ってた。
打者もイチローが憧れてた山崎とか
横谷 清水 銚子なんていう安打製造機が
いたしね。
大野の長打力なんて田代以上だった。
いまは高級うなぎ屋のオーナーシェフしtwるが。
市川という名捕手がいたが、もし慶應の
石井が指名拒否しないで入団してたら
石井は古田以上の選手になってたはず。
中山が入間市で連続幼女強姦殺人事件をおこしたとニュースで知ったときは後追い自殺したく
なった。 >>94
ちょいどころではない薄さだったような
山下田代加藤がまだ打てて、屋鋪高木が育って、助っ人が当たりで、若菜平田も安定なら…と思ったら1985は阪神が優勝
デキる監督とフロントがその気になって、投手がマシならいけそうだったのに… >>97
間違えた。
中山は殺人事件なんか起こしてなかった。
宮崎すすむとかいう男だった。
中山は今何してるんだろうか?
まともな人生歩めてないだろうな。 >>99
数年野球やめてた後プロ野球に復帰したし、引退後の仕事もそこそこ順調にやってるみたい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています