プロ野球・読売ジャイアンツの原辰徳監督は、三度目の就任となった今季、チームを5年ぶりのリーグ優勝に導いた。野球評論家の野村克也氏は「原監督には監督の“器”を感じない。選手よりも目立とうとするし、采配をめぐってよく動こうとする」と指摘する――。

 ※本稿は、野村克也『プロ野球 堕落論』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。

■5年ぶりのリーグ優勝に導いたが……

 15年シーズン終了後、巨人は「勇退」扱いで原辰徳監督のクビを切った。ところが19年、原政権が復活。しかもヘッドコーチを置かず、編成にも権限を持つというのだから、前回以上の強権監督である。

 期待して、現役を引退させてまで監督に据えた高橋由伸が、3年連続して優勝を逸し、責任を取って辞任した。球団は当初、高橋に続投要請をしていたそうだ。それを固辞しての退任だけに、球団にも多少の迷走はあったのかもしれない。しかし、“社内人事”とはいえ、かつて二度もクビを切った監督を呼び戻すとは、球団も監督人事に一貫性がなさ過ぎる。

 まず原監督を呼び戻した狙いが、私には分からない。呼び戻すほどの能力があるのなら、二度もクビにしなければよかったのだ。だから余計、その場しのぎの人事に見えてしまう。伝統の巨人軍が、そこまで人材不足とは……。わずか3年で戻ってくる原も、どういう考えなのだろう。

 私は正直、原監督に監督らしい“器”を感じていない。それが決定的になったのは15年、原政権下で選手の野球賭博関与が発覚したことだ。

 私は監督の仕事の1つを、選手の人間教育だと考えている。原監督は、この時点で指導者歴10年を超えていた。そう思って振り返ると、原監督のもと、そういった内容のミーティングをやっているとは、ついぞ聞いたことがなかった。

■「巨人軍は紳士たれ」の意味とは何か

 「巨人軍は紳士たれ」というチーム憲章は、「球界の模範たれ」という意味だ。その憲章を掲げながら、模範たる社会人となるための指導、教育をしていない。目の前の勝ち負けにとらわれて、選手たちの将来にまで考えが及ばなかったのだろう。

今からでも遅くない。原監督は、大先輩・川上哲治さんの監督術を学ぶべきだ。V9はONの存在だけで成した偉業ではなく、川上さんの人間教育の賜物(たまもの)だと私は思う。こんな身近なお手本に倣わない手はないではないか。川上さんの名言がある。ラジオの解説である日、川上さんが巨人の淡口憲治(あわぐちけんじ)(外野手)について、こう話したのだ。 「この子は親孝行な、いい選手なんですよ」

 親孝行と野球の実力に、どう関係があるのか。多くのファンがそう思ったことだろう。だが川上さんの考えは違う。親孝行な選手なら野球に打ち込み、うんと稼いで親をラクにしてやりたいと思うはずだ。だから親孝行な淡口は、一途に野球に取り組んでいる。

 そして親孝行な子なら、きっと素直な心の持ち主だろう。コーチや先輩の助言をよく聞き、真っ直ぐに伸びていってくれるだろう。私は川上さんが、そんな思いを「親孝行」の中に込めたのだと考えている。

 「親に、感謝の気持ちを忘れない」――これが川上さんの人間教育の出発点なのだと私は思う。先の例でいえば、野球を思う存分やらせ、プロにまで上げてくれた親への感謝の気持ちがあれば、野球賭博などに関わるはずもない。

■“日の当たる道”しか歩んでこなかった不幸

 本来なら原監督も、監督を辞めたときがネット裏から野球を見る、またとない勉強のチャンスであったのだ。野球がよく見え、野球の基本を改めて知ることができる。これまで見えなかったものを見れば、新しい気付きが必ずある。やがて自身の野球哲学も練れてくる。私が実際、そうだった。

 ところが原監督の場合、巨人に籍を置きながら限られた場しか与えられなかった。チームを背負って野球を見ると、そこにはどうしてもチーム愛という欲が入ってしまう。すると、見えるはずのものも見えなくなってくる。そこは原監督の置かれた立場の不幸だったと思う。

 原監督の育ちのよさ、苦労知らずのところも私は気がかりだ。高校から大学、プロに至るまで、常に日の当たるスター街道を歩んできた。下積みらしい下積みをしてこなかった。トップに立つ人間には、下積みがあったほうがいい。持たざる者、できない者の気持ちやつまずきが理解できたほうがいい。

2019/10/22 11:00
https://president.jp/articles/-/30387