【野球】ホークス再建秘話 実らなかった「巨人原獲得」構想
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<ニッカンスポーツ・コム/プロ野球番記者コラム:CATCH!!>
決戦の時が来た。ソフトバンクと巨人の日本シリーズ。
19年ぶりの顔合わせである。開幕前日の公式練習。午後2時から始まったホークスの練習には王球団会長の姿があった。
20世紀最後のシリーズは列島注目の「ON対決」だった。2勝4敗。長嶋巨人の前に涙をのんだ。練習を見守る王球団会長の言葉にも力がこもった。
「やっぱり巨人と(シリーズを)戦わないとね」。“常勝”の名は球界の盟主として君臨してきた巨人を倒してこそ完結する。
ましてや19年前に敵地東京ドームで長嶋監督の胴上げを見せつけられた。雪辱の思いは誰より強い。
ホークスと巨人のシリーズ対決は過去10度。ホークスが勝ったのは59年(南海)の1度しかない。60年目の悲願がかかる。
プロ野球創世記から栄光の歴史を紡ぎ続ける巨人とは対照的に、ホークスは厳しい荒波を浴びた。
南海、ダイエー、そしてソフトバンクと身売り。
「世界の王」を九州の地に招聘(しょうへい)したのも、チーム再建を目指すダイエーの大戦略であった。
因縁はまだある。王監督を福岡に招く1年前。ダイエーフロントは驚くようなトレードを画策した。巨人原の獲得だった。
すでに西武から秋山、渡辺智、内山の「世紀のトレード」を成立させていた。
その4日後の93年11月20日。根本専務(当時)の意向を受けた球団幹部がドラフト会場で巨人の球団代表に接触。
原獲得の意向を伝えた。交換要員は誰でもよかった。「強いチームをつくるには人を代えないとな」。
根本の口癖だった。
チーム再建のために、原のリーダーシップがどうしても欲しかったのだ。
だが、巨人は首を縦に振ることはなかった。「やっぱり巨人は原は出せないと…」。フロント幹部のうつむいた姿が忘れられない。
王監督誕生に合わせて西武からFAで工藤を獲得。19年前の巨人先発投手は初Vを置き土産に巨人に移籍した工藤だった。
そんな2人がタクトを振って令和初のシリーズを戦う。さて、またどんな物語が生まれるのだろうか。【ソフトバンク担当 佐竹英治】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191019-10190146-nksports-base
10/19(土) 10:35配信
https://www.youtube.com/watch?v=sH8nK2xAbIg
原 バット投げ
https://www.youtube.com/watch?v=UUYuOhp2sYw
原辰徳 満塁ホームラン 1989年
https://www.youtube.com/watch?v=pcihhjfUJgU
【懐かしの巨人応援歌】旧・原辰徳 応援歌(1984)
https://saitomo0908.com/wp-content/uploads/2018/09/hara-tatsunori.jpg
https://pbs.twimg.com/media/DooKM_rVsAAAOKU.jpg
http://npb.jp/bis/players/71073863.html
成績 交換要員だれよ?
佐々木は西武に渡したあとならまさか岸川で原取れるとか思ってねぇよな? ホークス行っててもドラフトクジ外しまくってたのかな? 原の地元は福岡だからな親父落とせばチャンスあったかも フロントが容認しても元木が蹴ったダイエーなんかに原が行くわけない ヤクザへの対応はナベツネとそんどちらが恐いことするのかな? 生まれてからすぐ神奈川に転居したんだろと思ってたけど小学校2年まで福岡にいたんだね 原にリーダーシップなんかないだろ
巨人引っ張ってたのは中畑 >>10
「俺は九州男児だ」みたいなこと言ってたらしいからね。 1993年の原 98試合 打率.229 11HR 44打点
まあ、出せなかったのは、単純に数字だけの問題じゃないんだろうな。 >>4
王は5年監督やってリーグ優勝1回、日シリでは西武に完敗
常勝巨人では無能扱い 不倫のとき、東京のだったから金で済んだけど、あれが福岡のだったら? >チーム再建のために、原のリーダーシップがどうしても欲しかったのだ。
石毛は?
西武からたくさん取ったのに、リーダー欲しいなら石毛だろ。 >>12
その昔読んだ、小学○年生の類の雑誌に載ってた「原辰徳物語」の漫画で
九州から首都圏へ転校した当初は
訛っていたのでいじめられかけた的なエピソードがあったような記憶 原が将来の監督候補である以上は巨人は出せない
巨人は監督になるのに縛りがある
生え抜き、巨人で引退、四番かエースが条件になる
実際、原は監督の実績は長嶋や王より上だから巨人の判断は間違ってない ホークス以前からして、
根本さんって今だったら炎上とか叩かれるとかいうレベルちゃうで >>25
村田は佐々木と一緒に西武行ったので、いなかった。
吉永・湯上谷あたりだとは思うけど、釣り合う気がしない…
http://2689web.com/1993/hawks.html 移籍が実現してたら
巨人ファンからものすごいクレーム来てただろうな。 >ホークスと巨人のシリーズ対決は過去10度。ホークスが勝ったのは59年(南海)の1度しかない。60年目の悲願がかかる。
南海時代のことなんか今の選手も福岡のファンも知らんよ
事実上別チーム 巨人に固執した川上と長島、原
あっさり巨人を捨てた王 >>1
1993年の原辰徳は監督に電撃復帰した長嶋茂雄に
強制的にサードに戻されてボロボロだった年だよな >>1
>原獲得の意向を伝えた。交換要員は誰でもよかった。
そんなこと言われても当時のホークスにはまともな選手が投手は村田、野手は佐々木くらいしかいなくてその村田佐々木を放出した直後だからな
ゴミ屋敷に連れてこられて「このゴミの山と交換してくれ」って言われてるようなもんだわ >>27
1993年は福岡ドーム元年で吉永幸一郎と山本和範
くらいしかまともな数字を残してないしね
山本はDH専だから事実上吉永しか弾がない >>22
体もでかいし目立つから番長みたいな奴らにに呼び出されるけど、
手を出されたらいつも一瞬で叩きのめしてたんだよな。
あと昔は体育の授業でソフトボールとか野球があったから、
すぐに活躍して人気者になったらしい。 >>6
貢は辰徳に巨人で現役を終えることをすすめたらしいからそれはない 原にリーダーシップあったっけ?
常に涙目だったような >>30
川上=熊本
長嶋=千葉
原 =福岡
王 =東京
王は江戸っ子なのであっさりしてる 野村克也が南海ホークスのプレイングマネージャーになってから
伊東芳枝(野村沙知代)の件で解任されるまで(昭和45年〜昭和52年)
2位、4位、3位、リーグ優勝、3位、5位、2位、2位
野村解任後からダイエーに身売りされるまで(昭和53年〜昭和63年)
6位、5位、6位、5位、6位、5位、5位、6位、6位、4位、5位
ダイエーになってから(平成元年〜平成10年)
4位、6位、5位、4位、6位、4位、5位、6位、5位、4位
野村解任後、ホークスは21年連続Bクラス >>40
川勝傳が球団経営に意欲を失ってチーム作りに
全く金をかけなくなったのが大きい
野村克也を寵愛しててプレイングマネージャー
時代は湯水のように金を与えてたのに でも長嶋が戻ってきてから原は明らかに扱い悪かったしね 巨人は原を指名した時だけはクジ運が良かったんだな
原:巨人、日ハム、大洋、広島の4球団競合
もし他の球団が引き当てていたらと考えると・・・
この時の運で巨人はその後数十年生きている >>48
外れ一位で川口和久を獲得した広島だけは良かった
けど日ハムは外れ一位の高山郁夫に入団拒否される
という踏んだり蹴ったり・・・ >>33
確か原貢と真弓の父がどちらも東洋高圧大牟田に勤務して、両家とも社宅に住んでいたはず >>29
杉浦さんも亡くなったからなぁ
生きてたら始球式でもやってほしかった・・・ >>33
真弓は三池工業の優勝の凱旋パレードを見て
本格的に野球を始めるようになったとか
原の親父は真弓にとってはある意味ヒーローだったのかもね 93年オフといえばFAで落合獲得に動き、原が見切りを付けられ始めた頃だな 93年時点だと佐々木と村田出したんだから
トレードの相手が山本と吉永くらいしかいないな
あとは入団したての若田部くらい >>58
吉田豊彦は前年なら11勝9敗 防御率3.64と好印象
だったんだけどね
広い福岡ドームに移転して7勝14敗 防御率4.62は
ちょっとね
あとは6勝6敗6セーブ 防御率3.31の木村恵二だな 岸川
吉永
藤本ヒロシ
湯上谷
小川
脇坂
山本
足利
齋藤貢
ダメだよ。弾がないよ。
まぁ、岸川と吉永は最後巨人に行ったけど…。 年代は覚えてないけど、ブーマーが来てラガが余った年があったけど。 >>28
もうHR10本前後しか打てなかったし、落合くるし松井もいたので、それなりの大変なニュースにはなっただろうけど、巨人ファンは意外と醒めた感覚で捉えていたと思う。 >>62
んなこたーないだろ
まぁ俺が原ファンだってのはあるけど 成績的にはいらない選手だけど貴重な生え抜きスターだから放出はまずないわな
それこそ佐々木クラスでも無理 いい加減巨人監督は生え抜きからっていうのは候補者少なくなるだけだから止めなくちゃいけないな。 ワンちゃんは長嶋がいる以上どうしても窓際族だった
助監督から監督になっても解任され再び藤田さんだったからな
根本さんが招聘してものすごく楽になったとホークス監督やめたあと語ってたな
50年もユニフォーム着れて幸せだったって >>61
92年。田淵最終年。
そのオフに田淵の後任で西武の根本管理部長(実質GM)が監督に(肩書は代表取締役専務兼監督で、実質GM兼監督)。
1年目は高齢で退団したブーマーの代わりに5年前1年で解雇されたライトを再獲得と、ドラフトで若田部や浜名を取った以外は大きな補強は無く
まあ現状の戦力把握のためにやってたようなもので、ダントツ最下位になってここで動く
秋山と佐々木らの大トレードやったのがこの時で、原獲得模索もこの時。外国人もメジャーで鳴らしたライマーを連れてきた(トラックスラーもこのとき) そういやダイエーはバースを入団させようとしてなかったっけ。ザクリー君の件で首になってたが。 >>68
阪神のオーナーだった久万がバースを日本の他球団でプレーさせないように妨害したらしい
それでメジャーの大物路線に切り替えて、その阪神と獲得競争して入団したのがアップショー >>4
王は当時在野。
TOTO(北九州市)の顧問を務めていたので九州財界ともつながりができていた。
更に94年に長嶋監督で優勝したので
当分巨人復帰の目もなくなり決断したと思われる。
長嶋が優勝できてなければ巨人を王を手放さないよう、引き留めただろう。 日本シリーズ巨人優勝してくれ。そしたらすぐナベツネ死ぬから。日本プロ野球がよくなる >>67
新聞記者の有本を二軍監督にしていたような >>67
1993年のダイエーほど勝つ気全くゼロのチームを見たことない。
福岡ドーム元年だったけど
本当にドーム以外全く見るべきところがなかった。
球団史上最低勝率の田淵時代とはまた違ったショボいチームだった。 >>67,>>75
あの年はわざとアレをやってたからね
激狭の平和台球場から福岡ドームに移転して対応
出来る選手は誰か見極める必要があった
2年連続20本塁打の佐々木誠は7本塁打に低迷して
トレード要員となり3年連続20本塁打を記録したこと
もある岸川勝也は翌年シーズン中に放出された >>69
アップショーは超優良だったなあ
翌年田豚と対立したせいで・・・ >>74
芦屋高校のエースから慶應大
長く新聞記者やってた人物だな
古くは法政二高監督の田丸仁や、立教大監督の砂押邦信と言ったプロ経験はないアマの監督を招聘というのはあったが
最近では極めて珍しかった 中内がプロ野球にそれほど興味なく知っていたのは王長嶋田淵だけ
だったと言う。王長嶋は当然巨人でまだ敷居が高く
田淵ならと要請したら受諾してもらったらしい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています