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【野球】飯田哲也が西武戦で痛恨の落球 「野球人生でもっとも思い出したくない」
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2019/09/23(月) 10:29:30.77ID:Qf+4he9C9
西武×ヤクルト "伝説"となった日本シリーズの記憶(39)

【リードオフマン】ヤクルト・飯田哲也 前編

(前回の記事はこちら>>)

四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

1992年、そして1993年の日本シリーズ――。
当時、黄金時代を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。
森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。
両チームの当事者たちに話を聞く連載19人目。

第10回のテーマは「リードオフマン」。前回の辻発彦(「辻」は本来1点しんにょう)に続いて、現在はソフトバンクの三軍外野守備走塁コーチを務める、元ヤクルト・飯田哲也のインタビューをお届けしよう。
【「日本シリーズはお祭りだから、緊張しなかった」】

――スワローズとライオンズが激突した1992(平成4)年、翌1993年の日本シリーズ。飯田さんにとっては、どんな思い出が残っていますか?

飯田 すごいメンバーがそろっていたあの西武との対戦でしたから、1992年に最初に戦った時には、「無様な試合だけは見せられない。とにかく0勝4敗だけは避けたいな」と思っていたことはよく覚えていますね。

――野村克也さんも、「4タテを食らうことだけは避けたかった」と話していました。当時のライオンズについては、どんなイメージを持っていましたか?

飯田 本当に「強い」というイメージだけでしたね。名前を聞いてもすごいピッチャーしかいないし、対戦したこともないし、初めての日本シリーズだったのでどうやって戦えばいいのかもわからない。
だから、さっきも言ったように、「ワンサイドゲームだけは避けたい」という思いだけでした。
とにかく、「シーズン通りの戦いをしたい」という思いが強くて、「西武がどうこう」という感じではなかったですね。

――1992年シーズンは阪神タイガースとのデッドヒートを制し、10月10日にセ・リーグ優勝。
一週間後の17日に日本シリーズ開幕というスケジュールでした。
ある意味では、シーズンの勢いをそのまま持ち込むこともできたのでは?

飯田 そうですね。この年のシーズンはとても苦しかったし、日本シリーズまでの準備期間もそれほどなかったから、そのままの流れでシリーズに臨めたかもしれないですね。
ただ、僕自身はとくに緊張もしなかったです。「日本シリーズはお祭りだ」と思っていたので。

――スワローズサイドは、ほぼ全員が「とても緊張していた」と話していましたが、飯田さんはまったく緊張しなかったのですか?

飯田 僕の中では「リーグ優勝がすべてだ」と思っているので、先ほども言ったように、「日本シリーズはお祭り」という感覚なんです。
"おまけ"というか、「日本一」ということに、あまり重点を置いていなかったんですよね。
もちろん日本一にはなりたいんですけど、それまでのリーグの戦いが厳しすぎて、すぐにシリーズに向けて気持ちの切り替えもできなかったですし、まったく緊張しなかったです。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190923-00872150-sportiva-base
9/23(月) 6:45配信
0002砂漠のマスカレード ★
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2019/09/23(月) 10:30:03.92ID:Qf+4he9C9
【コーチの指示を無視して、ホームに突入】

――広沢(克己/廣澤克実)さんも、池山(隆寛)さんも、「初戦は緊張で足が震えた」と口をそろえていましたが、飯田さんはそうではなかったんですね。

飯田 だって、お祭りですから(笑)。野村監督もよく言っていたけど、「勝負事はやってみないとわからない」と思っていました。
でも、野村さんはよく「初戦は様子見だ」とか、「初戦は勉強だ」って言っていましたけど、本心は「初戦は絶対に勝ちたい」と思っていたはずです(笑)。
――では、1992年の初戦で、代打の杉浦(享)さんがサヨナラ満塁ホームランで初戦を勝利したのは、とてもうれしかったでしょうね。

飯田 ホッとした部分はありましたね。勝って当たり前の西武が初戦に負けてしまった。「おっ、もしかしたらいけるかも?」って思うじゃないですか。

――では、具体的な場面を伺います。1992年のシリーズ初戦、3回裏。ワンアウト二塁で、二塁走者が飯田さんでした。飯田さんのタイムリー二塁打で、1−1の同点とした後の場面です。

飯田 はい、あの場面ですね(笑)。バッターが二番の荒井(幸雄)さんでしたから、「ワンヒットで返ろう」という意識しかありませんでした。

――そして、荒井さんがライト前にヒット。ここで二塁走者の飯田さんは、サードコーチャー・水谷新太郎さんの「止まれ」の指示を無視してホームに突入し、見事にセーフ。2−1と逆転に成功します。

飯田 この場面、スタートがものすごくよかったんです。サードコーチャーが止めていたのはもちろんわかっていたんですけど、勢いがつきすぎて止まれなかったというのが本当のところです。

 ライト・平野(謙)さんの送球はチラッと見えました。(キャッチャーの)伊東(勤)さんが捕球態勢に入っているのが見えたので、
体当たりしても負けちゃうので、「回り込むしかないな」と思いながら、ホームに突っ込んでいきました。
伊東さんをかいくぐりながら右手でベースにタッチしたんですけど、自分でも会心のスライディングでしたね。
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2019/09/23(月) 10:30:34.88ID:Qf+4he9C9
【野球人生で「もっとも思い出したくないプレー」】

――続いて伺いたいのが、1992年シリーズの、3勝3敗で迎えた第7戦。スワローズが1−0でリードしていた7回表、ツーアウト一、二塁。
打席に入ったのはライオンズ先発の石井丈裕投手でした。

飯田 よく覚えています。打者が投手だということで、前進守備を敷いていました。かなり前に守っていましたね。そして、石井さんの打球が飛んできた。
「あぁ、捕れるな」って思いましたね。で、「よし、追いついた」と思ったら、そこからもうひと伸びがあったんです。そして、落としました......。

――さらにもうひと伸びがあったのは風の影響なのでしょうか?

飯田 ライト方向に吹いていた風の影響もあったかもしれないですけど、ちょっと詰まっていたので、変な回転がかかっていたのもありました。
結果はヒットだったけど、あれは僕のエラーです。僕のミスです。この時点では僕はまだプロ6年目でしたけど、
現役を通じて「もっとも忘れられないプレー」で、「もっとも思い出したくないプレー」になりました。1992年シリーズの敗戦は、間違いなく僕の責任です。

――このプレーで同点となり、延長戦の末にスワローズは敗れ、ライオンズが日本一になりました。この年のシリーズをどのように振り返りますか?

飯田 チームとしては、本当によくやったと思いますよ。ただ、僕のあのプレーがなければ、結果は違っていたかもしれない。そういう思いはありますね。

――この結果を踏まえて、「打倒ライオンズの意識が強くなった」と多くの方が口にしていました。飯田さんはいかがでしたか?

飯田 僕はまったく「打倒西武」の意識はなかったですね。さっきも言ったように、僕にとってはペナントレースがすべてだったので、
日本シリーズのことを考えるより、「まずはシーズン優勝」という考えでしたから。そもそも、ペナントを勝ち上がらなければ日本シリーズにも出られないわけですから。

――そして、翌1993年日本シリーズも前年同様、スワローズとライオンズの一騎打ちとなりました。
ここでも、飯田さんは印象的なプレーで主役となりました。

飯田 もちろん、よく覚えています。「あのプレー」は、僕にとって「生涯一のベストプレー」ですからね......。

(後編に続く)
0006名無しさん@恐縮です
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2019/09/23(月) 10:57:21.85ID:jmDkjmQi0
守備走塁は一流だったな
バッティングもそこそこ
0008名無しさん@恐縮です
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2019/09/23(月) 11:10:09.22ID:VQn3jQJW0
捕手→セカンド→センターだったはず
0009名無しさん@恐縮です
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2019/09/23(月) 11:13:32.13ID:uHwr0gaj0
宇野勝「俺もあの事は思い出したくない」
0011名無しさん@恐縮です
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2019/09/23(月) 11:23:27.74ID:HX9QocTS0
声優の松嵜麗がおもろい。
大のヤクルトファンで仕事仲間の飯田さんに哲ちゃんてあだ名つけるほど。
あだ名の説明にいつも苦労しているらしいw
0012名無しさん@恐縮です
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2019/09/23(月) 11:27:44.26ID:xyZvWFUC0
脇谷亮太「あれはテレビの映りが悪かっただけなんだよ」
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