ジーン・バッキー
阪神入団当初はコントロールが悪かったが、1964年に投手コーチの杉下茂による猛烈なトレーニングで下半身を鍛えられ、さらに小山正明のスライダーを研究することで制球力をつけた[3][4]。
上手、横手からの変幻自在な投法と得意のナックルボールを決め球として先発投手の仲間入りをし、小山がトレードで抜けた後村山実とともに二枚看板のエースとして活躍した。


小山正明
1964年に大毎から球団名を変更した東京オリオンズは、阪神甲子園球場より狭い東京球場を本拠地球場としており小山にとって移籍は不利と思われたが、阪神時代に王貞治を打ち取るために覚えたパームボールを駆使した打たせて取る投球で30勝を挙げ、最多勝利のタイトルを獲得。

村山実
父親の転勤により、尼崎市で育つ。住友学園中学校では内野手をしていたが、住友工業高校[注釈 1] 進学後は1年次の1952年冬に投手へ転向。2年次の1953年からはエースとなり、監督の勧めでフォークボールを習得。

ビクトル・スタルヒン
191cmの長身から投げ下ろす豪速球を軸に、シュートとドロップで緩急をつけ、時にはシンカーで内野ゴロを稼ぐ投球を得意とした。たまに長い間合いからクイックで投げたり、サイドから投げたりもしていたという。

稲尾和久
同じ投球フォームから直球・変化球を投げ分けることができた。得意の球種はシュート、スライダー。当初稲尾はマスコミに「自分の決め球はスライダーである」と吹聴していたが、実際はスライダーは見せ球で、本当の決め球はシュートであった。
これを見抜いていたのは野村克也(南海)だけだった[34]。野村から面と向かって「お前、本当はシュートピッチャーやな」と言われたとき、稲尾は「見抜かれたか」と内心でギョッとしたという。
しかし、スライダーも屈指のもので、青田昇も「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と評価している。