2019.08.30

“阪妻(バンツマ)”の愛称で一世を風靡(ふうび)した名優・阪東妻三郎を父に持ち、2006年に亡くなった長兄の高廣さん、3歳年上の兄・正和さんと同じく俳優として活躍している田村亮さん。

時代劇『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系)の2代目・大岡忠相役や土曜ワイド劇場『狩矢父娘シリーズ』の狩矢警部役をはじめ、ドラマ、映画、舞台に多数出演。

闇営業問題が発覚した直後の7月に出演していた舞台は、奇しくも吉本興業の創始者の波瀾万丈の人生を描く『笑う門には福来たる〜女興行師 吉本せい〜』(新橋演舞場)。9月からは舞台『ペコロスの母に会いに行く』の公演が控えている田村亮さんにインタビュー。



◆俳優“田村三兄弟”でひとりだけ芸名にした理由は…

父・阪東妻三郎さんが亡くなったのは、亮さんがまだ7歳のとき。日本映画史に名を残す名優だけにスケジュールは多忙を極めていたが、子煩悩で、子どもの日、お正月の餅つき、節分の豆まきなど特別の日だけは必ず一緒にやってくれたという。

父が亡くなった翌年、1954年に長男の高廣さんが跡を継ぐ形で映画デビュー。1960年には、三男の正和さんも俳優デビューを果たす。そして1965年、四男の亮さんもテレビに出ることに。兄二人は本名をそのまま「芸名」としたが、亮さんだけはある理由で本名を使わなかった…

「僕は役者になる気が全然なかったんです。人前に出るのが恥ずかしくてね。僕が人様の前でお芝居するなんていうことは全然。なんでこんなことやってるんだろうって思いますよ(笑)。僕は商社マンになりたかったの。大学の経済学部に行っていましたし、英語を一生懸命勉強していたんだけど、こうなっちゃった(笑)」

−1965年、お父様の13回忌企画ドラマ『破れ太鼓』(NHK)に出演オファーをされたときはいかがでした?−

「当時は1番長い45分の番組だったんですけど、それに声がかかって、兄たちみんなが出るって言うからね。一番上の高廣兄貴とすぐ上の正和兄貴は役者をやっていたから出るのはわかるけれども、2番目の兄貴と僕は役者じゃなかったのに、その兄貴も出るからお前も出ろよって言われて。プロデューサーも『4人全員が出てくれると宣伝になるから出てくださいよ』って言うんですよ」

−それでみなさんでご出演されることに?−

「そうです。4人全員で出ました。たまたまその『破れ太鼓』というドラマの主人公の家族構成が長女と次女がいて、息子が4人兄弟なんですよ。だからちょうどいいじゃないかということで引っ張り出されて(笑)」

−初めて出演されていかがでした?−

「何もわからないうちに終わっちゃいましたよ。もしビデオがあったとしても見たいと思わない。最悪だと思いますよ(笑)」

−お顔も端正ですし、すぐに俳優にならないかというお話になったのでは?−

「そのときも役者をやる気は全くなかったんですけど、東宝に稲垣浩さんという監督がいらしたんですね。この方はおやじとはもう何回か一緒にやってらしていて、その方が三船敏郎さん主演で映画を撮るということになったんです。

それは3兄弟の話なんですけど、長男が三船さんで次男が佐藤允さん、そして三男役に合う役者が東宝にはいないから、誰にしようかなって言うことになって…。そうしたら稲垣監督が、『阪妻さんのところにもう一人出てない子がいるから、あの子を引っ張ってこよう』っていう話になったみたいで(笑)」

−それで俳優になることに?−

「プロデューサーが『稲垣先生のたっての希望なので、どうですか』って。僕も一応おふくろに相談して、『いやだよ』って言ったんだけど、『稲垣監督はうちのお父ちゃんといろいろご縁があった方だから、むげに断るわけにはいかないんじゃないの?』って言われて、『じゃあ大学に行っている間だけ契約します』って言って東宝に入らせてもらったんですよ」

−大学生の期間だけのつもりだったのですか?−

「そう。大学を卒業したら、サラリーマンになるつもりでした。だから本名でやっちゃって名前が有名になっても就職したときにわからないように、『田村亮』という芸名にしたんですよ。大学在学中は田村亮として俳優をやって、卒業したら本名に戻って普通の仕事をしようかなって…」

     ===== 後略 =====
全文は下記URLで

https://post.tv-asahi.co.jp/post-96689/
◆学業優先のはずが、就職活動もままならず…
◆連日、ワイドショーに「田村亮」の名前が…