【訃報】マン島TTレース日本人初の優勝者、伊藤光夫さんが死去 82歳
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1960年代、スズキのマシンで世界グランプリを舞台に活躍した伝説的なレーシングライダー、伊藤光夫さんが7月3日に亡くなられた。享年82。
伊藤さんは1937年生まれ、静岡県磐田市出身。レースキャリアは1959年にスズキの社員ライダーとして第2回浅間火山レースに参加したのがスタート。
世界GPデビューは1961年のフランスGPで、以来1967年までの7シーズンにわたり、50ccクラスを中心に参戦。GP通算35戦に出場し、通算2勝、表彰台獲得13回。年間ランキング最高位は62年〜65年の50ccクラスで4年連続して5位を記録。そのキャリアのハイライトとういうべきは63年、当時世界GPの一戦であったマン島TT50ccクラス。マン島の長く険しい公道コースを舞台に、この年50ccクラスのチャンピオンを獲得することになるチームメイトのH・アンダーソン、そのライバルであったクライドラーのH=G・アンシャイトを2位・3位に従えての会心の勝利で、現在に至るまでマン島TTにおける日本人唯一の優勝でもある。またキャリア最後のGP参戦となった67年日本GP50ccクラスで挙げた勝利も印象深い。
引退後もスズキのレース活動に深く関わり続け、マシンの開発やライダーの育成に尽力。さらに長らくMFJの技術委員も務めるなど、日本の二輪レースの発展にも大きく貢献した。
昨年12月にはその功績により、記念すべきMFJモーターサイクルスポーツ殿堂の第1回顕彰者にも選出されていた。
謹んで伊藤光夫さんのご冥福をお祈りいたします。
7/3(水) 20:02配信 webオートバイ
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190703-00010002-autoby-moto
https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16782548/rc/2019/07/03/a8628c0c3909816cd8eb820b75fc82b534e7f76e_large.jpg
https://pbs.twimg.com/media/DunKGBVUcAAWhac.jpg こんな凄い人が居たんだ
霊柩車じゃなくて斎場から焼場まで隼で送るべきだね マン島TTレースは、イギリスの方で二輪なわけか
ルマン24時間は、フランスで四輪 世界GPのタイトルがかかって頃のマン島TTでの勝利やから
今時のマン島TTの1勝とは重みが違うよね。 大藪春彦を思い出したのは俺だけじゃないはずだ(`・ω・´) >>1
あの死者多数のキチガイレースで日本人優勝してたんだな
しかも50年前
すげー シュワンツのチーム監督してたよね。安らかにお眠り下さいませ。 >>5
慎太郎が視察したマン島レースの予選で日本人ライダーが事故って死んだのでご破算になった >>16
それは同じ伊藤でも伊藤史朗のほう
天才ライダーといわれたが拳銃密輸で姿を消した ポツンと一軒家に出てなかったっけ?
似たような別番組だったかな マン島走るライダーはスピードの向こう側が見えてそう 80歳まで生きる事が出来て良かったと思った瞬間に何かのスイッチが入る ガチのレジェンドが亡くなってしまいましたか……
ご冥福をお祈りします 50ccの時代じゃ速度も危険性も桁違い
今じゃ毎年一人死ぬ計算だもんな
普通の先進国じゃ考えられない
昔は宝塚で胴体ちょん切れてもその日の公演続けたけど 50ccだと100kmぐらいかな?それでもコケたら死ぬだろうな 仮面ライダーでショッカーに何故か悪墜ちするスズキワークス軍団にこの人も出てたのかな CLOSER TO THE EDGEは定期的に見たくなる。 80年代の別冊モーターサイクリストに特集があったが
50ccでv型3気筒2万回転14段変速だった記憶
ちょっとでもバワーバンドから外れるとスピードガタ落ちなので
常にカチカチとシフトしていたとか、
記者曰く「そんなに特異で貴重なメカを持つマシンだから会社は遺さなかったのですか?」
伊藤「当時は更に次、もっと先!とドンドン開発していたから会社も我々も後ろを振り返らなかった」と述懐
凄い時代だった…。合掌 昔マンセルが住んでるから
マン島って言うんだって友達に吹聴してた 行ったことはないんだけどコースは覚えちゃってる不思議なところ >>51
車載カメラで何度も見たりゲームでやったりでなんとなく知ってる人多そう オレがマン島TTレースを知ったのは汚れた英雄(小説) Wiki見たが二輪も四輪もやってたんだな
高橋国光もそうみたいだ
ご冥福をお祈りします >>1
>以来1967年までの7シーズンにわたり、50ccクラスを中心に参戦
うわっ、なんか見てみたいな>50ccクラス ガイ・マーティンはまだ優勝してないTT
50cc2ストなんてまさに古き良き時代やな 伊藤史朗じゃないんだ
史朗さんはまだご健在なのかな?たしかヤマハだったね >>26
普通に死者でまくってるって有名なレースだからね。
いくら死人が出ても、それは歴史や文化で済まされてるのが驚きだけど。 日本のレース黎明期に御活躍された方々が
どんどん居なくなっていくな。。。
同じくスズキでレースされてた久保和夫さんも
SRS閉めてしまったし菅谷さんは今は漆紙を
製造されてるのか >>25
泉優二好きだったな
この人の小説でマン島TTを初めて知った じゃあもし斑鳩悟が優勝してても日本人初ではなかったのか オレも汚れた英雄の伊藤史朗しか知らなかった
2週間前にスペンサーレプリカヘルメットを見た
いまでも売ってるんかな >>16
(・∀・;)ローズマリーバトラーの曲も >>22
4ストローク単気筒エンジンだけどヘッドがDOHC。
これの市販車がカブレーシングCR110ってやつで
市販レーサーバージョンと極少数の公道仕様車が販売された。
CR110のレプリカがドリーム50。 >>77
リンクが貼れないのでアマゾンでスペンサー Nankai ヘルメットで検索して。まだ売ってるみたいだけど
何か俺の知ってるスペンサーのメットとは別物だった。スペンサーメットってこんなんじゃなかった気がする。
あとメットってこんなに高かったかな?六万円近い値段してるけど、当時高くて断念したNovaでも三万円ぐらいだったと記憶してる。 CR110で勝利への糸口を掴んだホンダは62年からRC112を投入する。
これは空冷4ストロークDOHC2バルブの2気筒エンジンで世界初の50cc2気筒エンジンだった。
その後には4バルブ化したRC113も投入してロードレース世界選手権を制覇してる。
市販車だったCR110はおよそ150台ほど販売されて
うち100台がレーシングパーツを組み込んだレーサーとして、50台ほどが保安部品を装着した公道仕様と言われている。
このCR110を模して作られたのがドリーム50で
レーシングパーツだったロングタンクやレーシングマフラーを装着したCR110に保安部品を付けたような見た目で販売されて
CR110の公道仕様の小型タンク+スクランブラー風セミアップマフラー姿は復刻されなかった。 シュワンツがマカオ走るって言い出した時に
「あそこは危ないからやめとけ」って言ったけど聞かなかったって話されてたの覚えてる
ご冥福をお祈りします
>>82
ヘルメットは価格勝負だと中華製に勝てないから品質勝負になっててレプリカ系は余計に高くなった 幻の天才ライダー、汚れた英雄ことヤマハの伊藤史郎と伊藤つながりで仲良かったんだよな。
マン島TTの日本人初表彰台が、50ccクラスの前日に行われた250ccクラス2位の伊藤史郎で。 >>86
それにしても高くないか?片山敬済モデル、平忠彦モデルでも三万円台で買えた記憶がある。間違ってるかもしれんけど、そんなぐらいの値段だった気がする。 https://i.imgur.com/vSuK6tI.jpg
1963年アメリカ、デイトナ
伊藤光夫、鈴鹿のデグナーカーブのエルンスト・デグナー、ベルギーGPでヤマハ世界GP初優勝を達成した伊藤史郎 >>41
当時市販車のRZ50ですらスプロケ変えたら100km/h近く出たから、レースの世界で流石にそれはないわ。 伊藤光夫さんの時代の50ccGPマシンの最高速度はスズキの竜洋テストコースで220kmだそう。 >>95
まあそうなんだけど、昔はレプリカとはいえそこまで高くはなかったと記憶してた。
普通のメットとレプリカの価格差が激しいなと思ったわ。 ずっとタイムトライアルレースだと思ってたがちがうのか(´・ω・`) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています